解釈してゐたが、近時当地の板垣家子夫氏が、芭蕉は大石田から猿羽根峠を越え、新庄に行つたことを注意したのであつた。
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芭蕉が大石田から乗船したと従来解釈したのは、奥の細道に、『最上川のらんと、大石田といふ所に日和を待つ』云々とあるからである。それはそれで好いとして、新庄で興行した俳諧があり、『風流亭、水の奥氷室尋る柳かな』といふ芭蕉の句は新庄の風流亭で作つたことが確実だとすれば、一たん大石田から船に乗り、新庄に上陸したこととせねば解釈がつかぬのである。ここの行為は自然でないと板垣氏は疑つてゐたのであつた。然るに計らずも曾良の随行日記が世にいづるに及び、芭蕉は大石田から船に乗らずに、陸路を新庄まで行つたことが明らかになつたのである。
〇六月朔日 大石田ヲ立(辰刻)、一栄、川水、弥陀堂迄送ル、馬弐疋
曾良の日記にかうあるから、芭蕉と曾良は銘々馬に乗り、元禄二年陰暦六月一日、午前八時頃一栄宅から大石田を立つたのである。一栄と川水二人が弥陀堂まで見おくつた。弥陀堂は何処であるか、井出村の地蔵堂などではなかつただらうか。一栄は高野平右衛門、川水は高桑加助で、一栄は最上
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