するのを実見して、以てその源をも想像することが出来る。
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それから、丹生《にふ》川がある。これは可なり大きい川で、大石田から半里ばかり北方の川前といふところにそそいで寄る。
下流には数個の洲を形成し、常は、水が川原のあひだを数条に分かれて流れて居る。最上川に入るところの有様も大体同じで、数条の川になつてそそいでゐる。そこを鮎もさかのぼるので、丹生川の鮎だといつて賞美されて居る。また、川前の最上川は秋鮭の取れるところで、はるばる海からのぼつてくる雌雄の鮭を取るのである。このへんに鮭の集まるのは、水温の関係だらうといふが、細い調査の出来てゐるわけではないが、鮭の身になつてみれば何かさういふ好い条件があるのかも知れない。去年(昭和二十年)の秋、一日川前に遊び、あのへんの山や最上川畔を逍遥し、水面から鮭の跳ね躍るのを見、土産に鮭をもらつて来たことがあつた。今年は体の都合でそれが出来ないのが心残りである。
さて、この丹生川を下流から上流にむかつて追尋すると、東へ流れて岩ヶ袋の鉄橋を通過し、尾花沢町の北方を流れ、宮沢村の丹生、正厳の南をとほつて、中洲を作つたり支流を合したり、稍複雑な形貌を呈しつつ、一方は中島、行沢《なめざは》、一方は北郷、坂本、鶴巻田の間から、南方へ嚮を替へ、母袋《もたい》、粟生、下柳渡戸《こやなぎわたと》を経て、滝ノ上、鶴子からなほ南へ走る。そして遠く御所山《ごしよやま》(一名船形山)にその源を発するのである。
丹生川くらゐの大きさになれば、いろいろの土地、事柄に関聯を持つやうになる。下柳渡戸から近い銀山は足利幕府時代、康正年間と伝へられ、長禄元年から五十年間ばかりは栄えた。今の薬師川が宝川といふ旧名を持つてゐるのはその繁盛を証明してゐる。それから一時廃山となつたが、慶長、元和に至つて再興し、寛永年間に至つて繁昌を極めた。寛永八九年ごろ其処の人口は二十万から三十万を算へたといふ記録が残つて居る。一日一人三合の割当にしてもなほ足らず、餓死する者が続出した程であつた。寛永十一年幕府の直営となり、十二年一時御留山(採掘禁止)となり、十八年から再許可となつたが、寛永も二十年を過ぎ正保元年頃から山が衰退の徴をあらはし、それから明治に至るまで幾多の消長を閲して今は全く廃山に帰してゐる。この銀山を流れる銀山川は丹生川の一支流をなし、下柳渡戸で入
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