女連が集まつて来て菜大根の類を洗つて居る。平凡な川口だと謂つていい。
併し、満月がのぼる時などは、一見平凡なこの川口も、月光の特別なかがやきを此処で見ることが出来る。これは反射面の多い川口の存在を明かに示してゐるのである。
この朧気川は山の断崖に沿うて流れたり、稲田のあひを流れたり、また支流を合したりして、尾花沢の朧気といふ部落を経て東へ向つて流れ、それからやうやく南へむかふ。そのあひだに、取上だの古殿《フルドン》などと部落がある。
それから川が細くなつて、峯岸といふ村の西を流れ、細野といふ村の北端から稍東に寄り、なほ南方の山中まで追尋することが出来る。細野村は山間の村で農を主業としてゐるが、炭焼も可なり居るので、大石田の人々がこの細野炭をも使つて居るのである。銀山の盛な頃にも細野、鶴の子の炭は有名で、炭焼竈は三百から四百を算へたさうである。
若しも自分の体力が快復して徒歩でここまで来ることが出来、この細野で朧気川に逢ふならば、必ず自分は心なつかしくおもふだらう。さうして、若しも村人の厚意によつて、一夜其処にやどることが出来るならば、翌朝早く立つて南方の山へこの川の源を辿るだらう。只今は米持参でなければ大概の宿屋は宿めないが、この村人の厚意により、握飯をも呉れるならば、自分はその握飯を持ち山中へ分け入り、この川の岸に腰をおろして食べるだらう。さうしてなほ南へ進むうち、川はいよいよ細くなり、道も無くなつて前進を諦めねばならぬところに行くだらう。そこで自分は大体の源をばその辺として、引返す気持になるだらう。大石田の町はづれで最上川に入る朧気川が、かういふ処から発してゐると思うて、一種の満足を覚えるだらう。併しこれはただの空想で、病後の体力が未だそこまでは行つてゐないのである。
荒町の東に延沢《のべざは》といふ部落がある。延沢は、延沢(野辺沢)能登守の旧領で、旧城址、八幡神社、竜護寺があり、六沢には観音堂がある。銀山の盛なころは延沢銀山と称へた程である。
かういふ部落にも興亡の小歴史があり、豊年と凶年と相交代しつつ現在に及んで居るのである。また、部落の古文書などに、『大雨洪水、村山郡諸川沿岸被害多し』などといふのが屡見あたるところを見ると、かくのごとき小さい川といへども大雨の時には恐るべき猛威を示すことが必定である。大石田の川口が、大雨にあたつて驚くべき姿を呈
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