るのである。
 銀山温泉の人目に附いたのは正保頃だと云はれて居る。寛永頃になり漸く人目を牽き、湯治する者があつまるに至つた。温泉は銀採掘の衰ふるにつれて盛になつた。
 丹生川の源流御所山は、順徳院がひそかに佐渡をのがれ給ひ、この山の麓に住はれたといふ別伝があり、宮沢村は院崩御の地だといつて、宮沢村には伝説の院御陵もあり、鶴子には御所神社があり、近くに屋敷平だの、御所の宮だの、アマブタ(尼二人)だのの地名があり、又前記の正厳なども順徳院に関係あるものとして信用してゐる農民が多い。この正厳にも御所神社(御所宮)があり、其縁起には、『皇居ヲ正厳ニ卜シ』云々とある。
 元禄二年芭蕉の来たときは、別の計画では、銀山峠を越え、上《かみ》ノ畑《はた》、銀山、延沢を経て尾花沢に至るつもりであつたことは、最近発見の曾良の随行日記によつて明かになつた。併し芭蕉はその計画を変更し、山刀切《なたぎり》峠を越え、堺田、富沢、押切、正厳を経て、尾花沢に至つたのであつた。
 また芭蕉の奥の細道に、『最上川のらんと、大石田といふ所に日和を待つ、爰に古き俳詣の種こぼれて』云々とあるので、芭蕉は大石田から船に乗つたやうに解釈してゐたが、近時当地の板垣家子夫氏が、芭蕉は大石田から猿羽根峠を越え、新庄に行つたことを注意したのであつた。
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 芭蕉が大石田から乗船したと従来解釈したのは、奥の細道に、『最上川のらんと、大石田といふ所に日和を待つ』云々とあるからである。それはそれで好いとして、新庄で興行した俳諧があり、『風流亭、水の奥氷室尋る柳かな』といふ芭蕉の句は新庄の風流亭で作つたことが確実だとすれば、一たん大石田から船に乗り、新庄に上陸したこととせねば解釈がつかぬのである。ここの行為は自然でないと板垣氏は疑つてゐたのであつた。然るに計らずも曾良の随行日記が世にいづるに及び、芭蕉は大石田から船に乗らずに、陸路を新庄まで行つたことが明らかになつたのである。

 〇六月朔日 大石田ヲ立(辰刻)、一栄、川水、弥陀堂迄送ル、馬弐疋

 曾良の日記にかうあるから、芭蕉と曾良は銘々馬に乗り、元禄二年陰暦六月一日、午前八時頃一栄宅から大石田を立つたのである。一栄と川水二人が弥陀堂まで見おくつた。弥陀堂は何処であるか、井出村の地蔵堂などではなかつただらうか。一栄は高野平右衛門、川水は高桑加助で、一栄は最上
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