純素朴であったのである。それでも目ざめかかったリビドウのゆらぎは生涯ついて廻るものと見えて、老境に入った今でも引きつけられる対象としての異性はそのころのリビドウの連鎖のような気がしてならないのである。そのころ新堀《しんぼり》を隔てた栄久町《えいきゅうちょう》の小学校に通う一人の少女があった。間もなく卒業したと見えて姿を見せなくなったが、私は後年年不惑を過ぎミュンヘンの客舎でふとその少女の面影を偲《しの》んだことがある。あるいは目前に私に対している少女にその再来なるものがいるかも知れない。
 新堀といえば、新堀にはそのころ舟が幾|艘《そう》も来て舫《もや》っていることがあった。幸田露伴翁の「水の東京」に、「浅草文庫の旧跡の下にはまた西に入るの小渠《しょうきょ》あり、須賀町地先を経、一屈折して蔵前《くらまえ》通りを過ぎ、二岐となる。其の北に入るものは所謂《いわゆる》、新堀にして、栄久《えいきゅう》町|三筋《みすじ》町等に沿ひ、菊屋《きくや》橋・合羽《かっぱ》橋等の下に至る。此一条の水路は甚だ狭隘《きょうあい》にして且《か》つ甚だ不潔なれども、不潔物其他の運搬には重要なる位置を占むること、其の不快を極むるところの一路なるをも忌み厭《きら》ふに暇《いとま》あらずして渠身不相応なる大船の数々出入するに徴して知るべし。且つ浅草区一帯の地の卑湿にして燥《かわ》き難きも、此の一水路によりて間接に乾燥せしめらるること幾許《いくばく》なるを知らざれば、浅草区に取りては感謝すべき水路なりといふべし」とあるところである。まだ少年の私はパイレートという煙草を買って、その中の美人の絵だけをとって中味をこの堀の水に棄《す》てたことがあった。新堀の名は三味線堀と共に私の記憶から逸し得ざるのもまた道理である。

       七

 その頃の浅草観世音境内には、日清役平壌戦のパノラマがあって、これは実にいいものであった。東北の山間などにいてはこういうものは決して見ることが出来ないと私は子供心にも沁々《しみじみ》とおもったものであった。十銭の入場料といえばそのころ惜しいとおもわなければならぬが、パノラマの場内では望遠鏡などを貸してそれで見せたのだから如何《いか》にも念入であった。師団司令部の将校等の立っている向うの方に、火災の煙が上って天を焦がすところで、その煙がむくむく動くように見えていたものである。
 このパノラマは上野公園には上野戦争がかいてあったが、これは浅草公園のものほど度々《たびたび》は見ずにしまった。そのころ仲見世《なかみせ》に勧工場《かんこうば》があって、ナポレオン一世、ビスマルク、ワシントン、モルトケ、ナポレオン三世というような写真を売っていた。これらの写真は、私が未だ郷里にいたとき、小学校の校長が東京土産に買って来て児童に見せ見せしたものであるから、私は小遣銭が溜《た》まると此処に来てその英雄の写真を買いあつめた。
 そういう英雄豪傑の写真に交って、ぽん太の写真が三、四種類あり、洗い髪で指を頬《ほお》のところに当てたのもあれば、桃割に結ったのもあり、口紅の濃く影《うつ》っているのもあった。私は世には実に美しい女もいればいるものだと思い、それが折にふれて意識のうえに浮きあがって来るのであった。ぽん太はそのころ天下の名妓《めいぎ》として名が高く、それから鹿島屋清兵衛さんに引かされるということで切《しき》りに噂《うわさ》に上った頃の話である。
 そのうち私は中学を卒業し、高等学校から大学に進んだころ、鹿島氏は本郷《ほんごう》三丁目の交叉《こうさ》点に近く住んでいるということを聞き、また写真屋を開業していて薬が爆発して火傷《やけど》をしたというような記事が新聞に載り、その記事のうちに従属的に織交《おりま》ぜられて初代ぽん太鹿島ゑ津子の名が見えていたことがあった。また、父の経営した青山脳病院では毎月患者の慰安会というものを催し、次ぎから次と変った芸人が出入したが、ある時鹿島ゑ津子さんがほかの芸人のあいまに踊を舞ったことがある。父がそのとき「なるほどまだいい女だねえ」などといって、私は父の袖を引張ったことがある。私のつもりではそんな大きい声を出しなさるなというつもりであった。遠くで細部はよく見えなかったが人生を閲《けみ》して来た味《あじわ》いが美貌のうちに沈んでしまって実に何ともいえぬ顔のようであった。私が少年にして浅草で見た写真よりもまだまだ美しい、もっと切実な、奥ふかいものであった。私は後にも前にもただ一度ぽん太を見たということになるのであるが、この注意も上京当時写真で見たぽん太の面影が視野の外に全くは脱逸していなかったためである。私はその時のことを「かなしかる初代ぽん太も古妻《ふりづま》の舞ふ行く春のよるのともしび」という一首に咏《よ》んだ。私のごとき山水歌人には手馴《てな》れぬ材料であったが、苦吟のすえに辛うじてこの一首にしたのであった。散文の達者ならもっと余韻|嫋々《じょうじょう》とあらわし得ると思うが、短歌では私の力量の、せい一ぱいであった。また或る友人は、山水歌人の私が柄にも似ずにぽん太の歌などを作ったといったが、作歌動機の由縁を追究して行けば、遠く明治二十九年まで溯《さかのぼ》ることが出来るのである。歌は歌集『あらたま』の大正三年のところに収めてある。
 それからずっと歳月が経《た》って、私の欧羅巴《ヨーロッパ》から帰って来た大正十四年になるが、火難の後の苦痛のいまだ疼《う》ずいているころであったかとおもうが、友人の一人から手紙を貰《もら》った中に、「ぽん太もとうとう亡くなりました」という文句があった。そしてこの報道は恐らく新聞の報道に本づいたものであったろうとおもうが、都下の新聞では先ず問題にするような問題にはしなかったようである。それで私も知らずにいたし、その報道の切抜《きりぬき》なども持っていない。恐らく極く小さく記事が載ったのではなかっただろうか。
 昭和十年になって、ふとぽん太のことを思いだし、それからそれと手を廻して友人の骨折によってぽん太の墓のあるところをつきとめた。墓は現在多磨墓地にある。
 昭和十一年の秋の彼岸《ひがん》に私は多磨墓地に行った。雨のしきりに降る日で事務所で調べるのに手間どったがついにたずね当てることが出来た。墓は多磨墓地第二区八側五〇番甲種で、墓石の裏には大正十四年八月一日二代清三郎建之と刻してある。この二代鹿島清三郎氏は目下小田原下河原四四番地に住まれているはずである。此処《ここ》に合葬せられている仏は、鹿島清兵衛。慶応二年生。死亡大正十二年十月十日。病名慢性腸|加答児《カタル》。ゑ津。明治十三年十一月二十日生。死亡大正十四年四月二十二日。病名肝臓|腫瘍《しゅよう》。大一郎。明治三十四年八月八日生。死亡大正十四年二月九日。病名慢性気管支加答児。静江。明治四十年二月九日生。死亡昭和三年一月二十九日。病名腎臓炎。京子。明治四十年生。死亡大正十三年九月二十七日。病名|脊髄《せきずい》カリエス。云々である。
 鹿島ゑ津さんは即《すなわ》ち初代ぽん太で、明治十三年生だから昭和十一年には五十七歳になるはずで、大正十四年四十六歳で歿《ぼっ》したのである。ぽん太については、森鴎外の「百物語」に出ているが、あれはまだ二十前の初々《ういうい》しい時のことであっただろう。誰か小説の大家が、晩年におけるゑ津さんの生活のデタイルスを叙写してくれるなら、必ず光りかがやくところのある女性になるだろうと私は今でもおもっている。

       八

 そのころ東京には火事がしばしばあって、今のように蒸気ポンプの音を聞いて火事を想像するのとは違い、三つ番でも鳴るときなどは、家のまえを走ってゆく群衆の数だけでもたいしたものであった。
 私は東京に来たては、毎晩のように屋根のうえに上って鎮火の鐘の鳴るまで火事を見ていたものである。寝てしまった後でも起き起きして物干台から瓦《かわら》を伝わり其処の屋根瓦にかじりついて、冬の夜などにはぶるぶる震えながら見ていたものである。東京の火事は毎晩のように目前に異様の世界を現出せしめてくれるからであった。
 そういう具合にして私は吉原の大火も、本郷の大火も見た。吉原には大きい火事が数回あったので、その時から殆《ほとん》ど四十年を過ぎようとしている今日でも、紅い火焔と、天を焦がして一方へ靡《なび》いて行く煙とを目前におもい浮べることが出来るほどである。時には書生や代診や女中なども交って見ている。「あ、今度はあっちへ移った」などというと、物のくずれる時のような音響が伝わってくる。同時に人の叫びごえが何か重苦しいもののように聞こえてくる。そのうち火勢が段々衰えて来て、たちのぼる煙の範囲も狭くなるころ、「もうおしまいだ」などといって書生らは屋根から降りて行っても私はしまいまで降りずにいたものである。こういう光景は、私の子どもらはもう知ることが出来ない。
 このごろは、ナフタリンだの何のと、種々様々な駆虫剤が便利に手に入ることが出来るので、蚤《のみ》なども殆《ほとん》どいなくなったけれども、そのころは蚤が多くて毎夜苦しめられた。そのかわり、動物学で学んだ蚤の幼虫などは、畳の隅《すみ》、絨毯《じゅうたん》の下などには幾つも幾つもいたものである。私はある時その幼虫と繭《まゆ》と成虫とを丁寧に飼っていたことがある。特に雌雄の蚤の生きている有様とか、その交尾の有様とかいうものは普通の中等教科書には書いてないので、私は苦心して随分長く飼って置いたことがある。飼うには重曹とか舎利塩などのような広口の瓶の空《あ》いたのを利用して、口は紙で蔽《おお》うてそれに針で沢山の穴をあけて置く。また時々血を吸わせるには、太股《ふともも》のところに瓶の口を当てて置くと蚤が来て血を吸う。そういうときに交尾状態をも観察し得るので、あの小さい雄の奴がまるで電光の如くに雌に飛びつく。もはや清潔法は完備し、駆虫剤の普及のために蚤族も追々減少して見れば、そういう実験をしようとしても今は困難であるから、私の子どもなどはもうこういうことは知らないでいる。
 そうだ、火事のところでいい忘れたが、火事が近くて火の粉の降りかかって来たのが鳥越町に一つあった。また凄《すご》かったのは神田和泉町の第二医院の火事で、あまりの驚愕《きょうがく》に看護婦に気のふれたのがあって、げらげら笑うのを朋輩《ほうばい》が三、四人して連れて来るのを見たことがある。私がそんなに近く見たのはこの一例だけだけれども、そのころの東京の火事にはそんな例がざらにあったものとおもう。
 東京は大震災であのような試煉を経たが、私も後年に火難の試煉を経た。少年のとき屋根瓦にかじりついて、紅く燃えあがる吉原の火事を傍看したのとは違って、これはまたひどいともひどくないとも全く言語に絶した世界であった。私は香港《ホンコン》と上海《シャンハイ》との間の船上で私の家の全焼した電報を受取り、苦悩のうちに上海の歌会に出席して人々の楽しそうな歌を閲して批評などを加えつつ、不思議な気持で船房に帰ったことを今おもい出す。

       九

 私らが浅草を去って神田和泉町それから青山に転任するようになってから、私は一度東三筋町の旧宅地を見に行ったことがある。その時には、門から玄関に至るまで石畳になっていたところに、もう一棟家が建って糸の類を商売にする人が住んでいたようであった。しかし塀《へい》に沿うて路地を入って行くと井戸もそのままで、塀の節穴から覗《のぞ》けば庭も元のままで、その隣の庭もそのままのようで松樹などが塀の上からのぞいていた。その隣の庭というのは幕府時代の某の屋敷でなかなか立派であった。
 それから、昭和元年ごろ、歳晩《としのくれ》にも一度見て通ったことがある。その時には市区改正の最中で道路が掘りかえされ、震災後のバラック建《だて》であるし、殆《ほとん》ど元のおもかげがなくなっていた。私は泥濘《でいねい》の中を拾い歩きして辛うじて佐竹の通に出たのであった。
 それからついでがあって昭和十一年
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