の一月と十月とに其処をたずねた。蔵前通を行くと、桃太郎団子はさびれてまだ残っていた。そして市区がすっかり改正されて、道路も舗装道になっているし、一月の時には三筋町の通りで羽子《はね》などを突いているのが幾組もあった。まがり角が簡易食店で西洋料理などを食べさせるところ。その隣は茶鋪、蝦蟇口《がまぐち》製造業、ボール筥《ばこ》製造業という家並で、そのあたりが私のいた医院のあとであった。その隣はカバン製造業、洋品店、玩具《がんぐ》問屋、煙草《たばこ》店、菓子店というような順序に並んでおり、路地に入ってみると、元庭であったところにもぎっしり家が建っており、そのあたりの住人も大体替ってしまっていた。その頃の煙草屋も薬種商も、綿屋も床屋も肉屋も炭屋も皆別な人で元のおもかげがなかった。私の気持からいえば先ずリップ・ワン・ウィンクルというところであった。
一月の時には私は鳥越神社にも参拝した。神殿も宝庫も震災後|新《あらた》に建てられたもので、そのころ縁日のあったあたりとは何となく様子がかわっていた。それから北三筋町の方へも歩いて行って見た。今は小さい通りも多くなって、電車通に向いて救世軍の病院が立派に建っている。新堀は見えなくなってその上を電車の通ったのは前々からであるが、震災後|街衢《がいく》が段々立派になり、電車線路を隔てた栄久町の側には近代茶房ミナトなどという看板も見えているし、浄土宗浄念寺も立派に建立《こんりゅう》せられているし、また東京市精華尋常小学校は鉄筋|宏壮《こうそう》な建築物として空に聳《そび》えつつあった。かつて少年私の眼にとまった少女の通っていた学校である。
私の追憶的随筆は、かくの如くに平凡な私事に終始してあとは何もいうことがない。ただ一事加えたいのは、父が此処に開業している間に、診察の謝礼に賀茂真淵書入《かものまぶちかきいれ》の『古今集』を貰《もら》った。多分田安家に奉ったものであっただろうとおもうが、佳品の朱で極めて丁寧に書いてあった。出処も好《よ》し、黒川|真頼《まより》翁の鑑定を経たもので、私が作歌を学ぶようになって以来、私は真淵崇拝であるところから、それを天からの授かり物のように大切にして長崎に行った時にもやはり一しょに持って歩いていたほどであったが、大正十三年暮の火災のとき灰燼《かいじん》になってしまった。私の書架は貧しくて何も目ぼしいものはなく、辛うじてその真淵書入の『古今集』ぐらいが最上等のものであったのに、それも失《う》せた。私は東三筋町時代を回顧するごとに、この『古今集』のことを思出して残念がるのであるが、何事も思うとおりに行くものでないと今では諦《あきら》めている。そして古来書物などのなくなってしまう径路に、こういうふとした事に本づくものがあると知って、それで諦めているようなわけである。
まえにもちょっと触れたが、上京した時私の春機は目ざめかかっていていまだ目ざめてはいなかった。今は既に七十の齢《よわい》を幾つか越したが、やをという女中がいる。私の上京当時はまだ三十幾つかであっただろう。「東京ではお餅のことをオカチンといいます」と私に教えた女中である。その女中が私を、ある夜銭湯に連れて行った。そうすると浴場には皆女ばかりいる。年寄りもいるけれども、綺麗《きれい》な娘が沢山にいる。私は故知らず胸の躍るような気持になったようにもおぼえているが、実際はまだそうではなかったかも知れない。女ばかりだとおもったのはこれは女湯であった。後でそのことが分かり、女中は母に叱《しか》られて私は二たび女湯に入ることが出来ずにしまった。私はただ一度の女湯入りを追憶して愛惜《あいせき》したこともある。今度もこの随筆から棄《す》てようか棄てまいかと迷ったが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残っている。
底本:「斎藤茂吉随筆集」岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年10月16日第1刷発行
2003(平成15)年6月13日第7刷発行
底本の親本:「斎藤茂吉選集 第十一巻」岩波書店
1981(昭和56)年11月1日第1刷発行
初出:「文藝春秋」
1937(昭和12)年1月号
入力:五十嵐仁
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年1月13日作成
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