《ホンコン》と上海《シャンハイ》との間の船上で私の家の全焼した電報を受取り、苦悩のうちに上海の歌会に出席して人々の楽しそうな歌を閲して批評などを加えつつ、不思議な気持で船房に帰ったことを今おもい出す。

       九

 私らが浅草を去って神田和泉町それから青山に転任するようになってから、私は一度東三筋町の旧宅地を見に行ったことがある。その時には、門から玄関に至るまで石畳になっていたところに、もう一棟家が建って糸の類を商売にする人が住んでいたようであった。しかし塀《へい》に沿うて路地を入って行くと井戸もそのままで、塀の節穴から覗《のぞ》けば庭も元のままで、その隣の庭もそのままのようで松樹などが塀の上からのぞいていた。その隣の庭というのは幕府時代の某の屋敷でなかなか立派であった。
 それから、昭和元年ごろ、歳晩《としのくれ》にも一度見て通ったことがある。その時には市区改正の最中で道路が掘りかえされ、震災後のバラック建《だて》であるし、殆《ほとん》ど元のおもかげがなくなっていた。私は泥濘《でいねい》の中を拾い歩きして辛うじて佐竹の通に出たのであった。
 それからついでがあって昭和十一年
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