とき山水歌人には手馴《てな》れぬ材料であったが、苦吟のすえに辛うじてこの一首にしたのであった。散文の達者ならもっと余韻|嫋々《じょうじょう》とあらわし得ると思うが、短歌では私の力量の、せい一ぱいであった。また或る友人は、山水歌人の私が柄にも似ずにぽん太の歌などを作ったといったが、作歌動機の由縁を追究して行けば、遠く明治二十九年まで溯《さかのぼ》ることが出来るのである。歌は歌集『あらたま』の大正三年のところに収めてある。
 それからずっと歳月が経《た》って、私の欧羅巴《ヨーロッパ》から帰って来た大正十四年になるが、火難の後の苦痛のいまだ疼《う》ずいているころであったかとおもうが、友人の一人から手紙を貰《もら》った中に、「ぽん太もとうとう亡くなりました」という文句があった。そしてこの報道は恐らく新聞の報道に本づいたものであったろうとおもうが、都下の新聞では先ず問題にするような問題にはしなかったようである。それで私も知らずにいたし、その報道の切抜《きりぬき》なども持っていない。恐らく極く小さく記事が載ったのではなかっただろうか。
 昭和十年になって、ふとぽん太のことを思いだし、それからそれと
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