うことを聞き、また写真屋を開業していて薬が爆発して火傷《やけど》をしたというような記事が新聞に載り、その記事のうちに従属的に織交《おりま》ぜられて初代ぽん太鹿島ゑ津子の名が見えていたことがあった。また、父の経営した青山脳病院では毎月患者の慰安会というものを催し、次ぎから次と変った芸人が出入したが、ある時鹿島ゑ津子さんがほかの芸人のあいまに踊を舞ったことがある。父がそのとき「なるほどまだいい女だねえ」などといって、私は父の袖を引張ったことがある。私のつもりではそんな大きい声を出しなさるなというつもりであった。遠くで細部はよく見えなかったが人生を閲《けみ》して来た味《あじわ》いが美貌のうちに沈んでしまって実に何ともいえぬ顔のようであった。私が少年にして浅草で見た写真よりもまだまだ美しい、もっと切実な、奥ふかいものであった。私は後にも前にもただ一度ぽん太を見たということになるのであるが、この注意も上京当時写真で見たぽん太の面影が視野の外に全くは脱逸していなかったためである。私はその時のことを「かなしかる初代ぽん太も古妻《ふりづま》の舞ふ行く春のよるのともしび」という一首に咏《よ》んだ。私のご
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