。その味は市村座の向側の馬肉屋の煮込そっくりであったから、煮込む骨に共通の点があったのかも知れない。
郷里を立つとき祖母は私に僅《わず》かばかりの小遣銭《こづかいせん》をくれていうに、東京には焼芋《やきいも》というものがある、腹が減ったらそれを食え。そこで私は学校の帰りには、左衛門橋の袂《たもと》の焼芋屋によって五厘ずつ買った。そのころ五厘で焼芋三個くれたものである。
母は私を可哀がって学校から帰るとかけ蕎麦を取ってくれた。もりかけが一銭二厘から一銭六厘になった頃で大概三つぐらいは食った。
また、夜おそくなると書生と牛飯というのを食いに行き行きした。一|碗《わん》一銭五厘ぐらいで赤い唐辛子粉《とうがらしこ》などをかけて食べさせた。今でも浅草の観世音近くに屋台店が幾つもあるけれども、汁が甘くて駄目になった。その頃はあんなに甘くなかった。
私と同様出京して正則《せいそく》英語学校に通っていた従弟《いとこ》が、ある日日本橋を歩いていて握鮓《にぎりずし》の屋台に入り、三つばかり食ってから、蝦蟇口《がまぐち》に二銭しかなくて苦しんだ話をしたことがある。その話を聞いて私は一切すしというもの
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