三筋町界隈
斎藤茂吉
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)日清《にっしん》戦役が
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)郷里|上《かみ》ノ山《やま》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「糸+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍《どてら》
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一
この追憶随筆は明治二十九年を起点とする四、五年に当るから、日清《にっしん》戦役が済んで遼東還附《りょうとうかんぷ》に関する問題が囂《かまびす》しく、また、東北三陸の大海嘯《だいかいしょう》があり、足尾銅山鉱毒事件があり、文壇では、森鴎外の『めさまし草』、与謝野鉄幹《よさのてっかん》の『東西南北』が出たころ、露伴の「雲の袖《そで》」、紅葉《こうよう》の「多情多恨」、柳浪《りゅうろう》の「今戸心中《いまどしんじゅう》」あたりが書かれた頃《ころ》に当るはずである。東京に鉄道馬車がはじめて出来て、浅草観音の境内には砂がき婆《ばあ》さんのいたころである。この砂がき婆さんは一目眇《すがめ》の小さな媼《おうな》であったが、五、六種の色の粉末を袋に持っていて人だかりの前で、祐天和尚《ゆうてんおしょう》だの、信田《しのだ》の森だの、安珍清姫だの、観世音霊験記だのを、物語をしながら上下左右自由自在に絵を描いて行く、白狐《びゃっこ》などは白い粉で尾のあたりからかいて、赤い舌などもちょっと見せ、しまいに黒い粉で眼を点ずる、不動明王の背負う火焔《かえん》などは、真紅な粉で盛りあげながら描くといったような具合で、少年の私は観世音に詣《もう》ずるごとに其処を立去りかねていたものである。その媼もいつのまにか見えなくなった、何時《いつ》ごろどういう病気で亡くなったか知る由もなく、また媼の芸当の後継《あとつぎ》もいず、類似のわざをする者も出ずにしまったから、あれはあれで絶えたことになる。その頃助手のようなものは一人も連れて来ずに、いつも媼ひとりでやって来ていた。またその粉末も砂がきとはいえ、砂でなくて饂飩粉《うどんこ》か何かであったのかも知れず、それにも一種の技術があって万遍なく色の交るように拵《こしら》えてあったのかも知れないが、実際どういうものであったか私にはよく分からぬ。また
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