現在ああいうものが復興するにせよ、時代には敵《かな》わぬだろうから、あの成行きはあれはあれで好《よ》かったというものである。
 鉄道馬車も丁度そのころ出来た。蔵前《くらまえ》どおりを鉄道馬車が通るというので、女中に連れられて見に行ったことがある。目隠しをした二頭の馬が走ってゆくのは、レールの上を動く車台を引くので車房には客が乗っている。私が郷里で見た開化絵を目《ま》のあたり見るような気持であったが、そのころまでは東京にもレールの上を走る馬車はなかったものである。この馬車は電車の出来るまで続いたわけである。電車の出来たてに犬が轢《ひ》かれたり、つるみかけている猫が轢かれたりした光景をよく見たものであるが、鉄道馬車の場合にはそんな際《きわ》どい事故は起らぬのであった。

       二

 そういうわけで、私は数えどし十五のとき、郷里|上《かみ》ノ山《やま》の小学校を卒《お》え、陰暦の七月十七日、つまり盆の十七日の午前一時ごろ父に連れられて家を出た。父は大正十二年に七十三歳で歿《ぼっ》したから、逆算してみるに明治二十九年にはまだ四十六歳のさかりである。しかし父は若い時分ひどく働いたためもう腰が屈《まが》っていた。二人は徒歩で山形あたりはまだ暁の暗いうちに過ぎ、それから関山越えをした。その朝山形を出はずれてから持っていた提灯《ちょうちん》を消したように憶《おぼ》えている。
 関山峠はもうそのころは立派な街道《かいどう》でちっとも難渋しないけれど、峠の分水嶺を越えるころから私の足は疲れて来て歩行が捗《はかど》らない。広瀬川の上流に沿うて下るのだが、幾たびも幾たびも休んだ、父はそういう時には私に怪談をする。それは多く狐《きつね》を材料にしたもので父の実験したものか、または村の誰彼が実験したもののようにして話すので、ただの昔話でないように受取ることも出来る。しかしその怪談の中にはもう話してもらったのもあるし足の疲労の方が勝つものだから、だんだん利目《ききめ》がなくなって来るというような具合であった。ところがあたかもそのとき騎兵隊の演習戦があった。卒は黄の肋骨《ろっこつ》のついた軍服でズボンには黄の筋が入ってあり、士官は胸に黒い肋骨のある軍服でズボンには赤い筋が入っている。それを見たとき疲労も何も忘れてしまった。私は日清戦争の錦絵《にしきえ》は見ていても本物を見るのはその時が初
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