「鶏の若きが闘ひては勝ち闘ひては勝つときには、勝つといふことを知りて負くるといふことを知らざるまま、堪へがたきほどの痛きめにあひても猶《なお》よく忍びて、終《つい》に強敵にも勝つものなり。また若きより屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》闘ひてしばしば負けたるものは、負けぐせつきて、痛を忍び勇みをなすといふことを知らず、まことはおのが力より劣れるほどの敵にあひても勝つことを得ざるものなり。鶏にても負けぐせつきたるをば、下鳥《したどり》といひて世は甚だ疎む。人の負けぐせつきたるをば如何《いか》で愛《め》で悦《よろこ》ばむ」というのがあって、私はこれをノオトに取って置いたことがある。この文は普通道徳家例えば『益軒十訓』などの文と違い実世間的な教訓を織りまぜたものであって、いつしか少年の私の心に沁《し》み込んで行った。
吉原遊里の話も、ピンヘッド、ゴールデンバット、パイレートの煙草の香も、負ぐせのついた若鶏の話も、陸奥《むつ》から出京した少年の心には同様の力を以て働きかけたものに相違ない。今はもはや追憶だから当にならぬようで存外当っている点がある。
五
私が東京に来て、連れて来た父がまだ家郷に帰らぬうちから、私は東京語の幾つかを教わった。醤油《しょうゆ》のことをムラサキという。餅《もち》のことをオカチンという。雪隠《せっちん》のことをハバカリという。そういうことを私は素直に受納《うけい》れて今後東京弁を心掛けようと努めたのであった。
私が開成中学校に入学して、その時の漢文は『日本外史』であったから、当てられると私は苦もなく読んで除《の》ける。『日本外史』などは既に郷里で一とおり読んで来ているから、ほかの生徒が難渋《なんじゅう》しているのを見るとむしろおかしいくらいであった。しかるに私が『日本外史』を読むと皆で一度に笑う。先生は磯部武者五郎という先生であったがお腹《なか》をかかえて笑う。私は何のために笑われるかちっとも分からぬが、これは私の素読は抑揚|頓挫《とんざ》ないモノトーンなものに加うるに余り早過ぎて分からぬというためであった。爾来《じらい》四十年いくら東京弁になろうとしても東京弁になり得ず、鼻にかかるずうずう弁で私の生は終わることになる。
私は東京に来て蕎麦《そば》の種物《たねもの》をはじめて食った。ある日母は私を蕎麦屋に連れて行って
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