、漫々といはうか、縹茫《へうばう》といはうか、少年はそんな形容詞は知らなかつたけれども、何か正体の知れぬものを目前に見たのであつた。また、上山では太陽が山から出て山に入るのに、ここではその渺々《べうべう》漫々たる変な天然のうちに雲が紅く染まつてその中に太陽が入る。少年等は驚いてしまつた。
 芭蕉が奥の細道で『あつき日を海に入れたり最上川』と詠んだのはこの酒田の日和《ひより》山といふところであつた。少年であつた私等は無論芭蕉の句などは知らず、訓導もそのころは芭蕉の句を云々する者などはゐなかつたと同様に、かういふ句のあることなどは知らなかつた。そしてその夜は少年を皆寝かして置いて、先生は別な部屋で女中と酒を飲んだ。女中といつても、北陸道の越後、ここの荘内、酒田から羽後の海岸一帯にかけて、女の顔容とその膚とが特に美しい。先生は少年を引率し、全部徒歩で山の難路を越えて来たのだから、ここで秘《ひそ》かに酒を飲んだといふことは、まことに無量の味はひがあるが、少年にはそんなことが分からう筈《はず》がない。ただ翌朝『先生は昨夜《よんべ》は酒のんだ。けんど、日記さ付けんな』といつて甚だ上機嫌だつたのでお
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