齋藤茂吉

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)川前《かはまへ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ある日|楯岡《たてをか》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
−−

 大石田に来てから、最上川に大きな鯉が居るといふ話を一再ならず聞いた。今は大石田町に編入されたが、今宿(いましゆく)といふ部落の出はづれで、トンネルのあるところの山を切開いた新道、つまり従来ヘグリと云つてゐた断崖に沿うて流れる最上川の底は堅い巌石の層で、その地方の人のいふバンから出来て居る。平たい巌のことをバンと云ふらしいが、そのバンが深い洞窟となつてゐる箇処があつて、其処が大きな鯉群の隠場処だといふ話も聞いた。夏で最上川の水の減少した時でも、そのあたりの深さは四丈即ち四十尺或はそれ以上あるといふことである。土地の人某が縄をさげて計つた結果がさうであつた。
 最上川には処々に鯉群が居るけれども、鯉の話をするものは先づ其処のことを話すのが常である。川前《かはまへ》といふ村から大石田へ移転して来た、井刈安蔵といふ人が居た。普段は田舎骨董などを売買してゐるが、魚を捕へることが好きで、またその方の巧者である。ある日|楯岡《たてをか》へ行つた帰りに袖崎《そでさき》駅で下車して大石田へ向つて歩いて来ると、ヘグリに近い小菅《こすげ》村に沿うた最上川に鯉の群が遊泳してゐるやうな気配を感じた。これは所謂『勘』といふ奴で、波だつ紋の具合で直覚したといふのである。安蔵は大石田の家に帰り、昼食を早々に済ませて、投網舟で行つてみたところが、果して鯉がゐた。二尺七八寸ぐらゐの奴が四尾ばかり先行し、同じぐらゐ大きい七八尾がそれにつづいてゐた。安蔵がいきほひ込んで網を打つたところが、手答があつて、実に大きいのが一尾とれた。あとは前に言つた洞窟に隠れてしまつたといふのである。
『さうだなあ、五尺はあつたな、十五貫はあつたべな』などと安蔵は談つたさうである。
 友人からこの話を聞いたとき、幾分安蔵の話に法螺も交つてゐるやうな気もした。私はもうこの年になつたので、人の話をその儘受納れない場合もちよいちよいあるやうになり、また今宿のヘグリあたりには屡※[#二
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング