聴いたのであった。また先生の助手として森田正馬さんなどが、その席にいて、私は西洋語の綴方《つづりかた》を訊ねたりした。私はもう医科大学の二年生になろうとしており、父上が独逸から帰って精神病医として立っていたのであるから私が先生の門に入る機縁はそのあたりから形成されていたのである。私は学生として先生の講筵《こうえん》に出席している間に『精神病学集要』・『精神病学要略』・『精神病鑑定例』・『精神病検診録』・『精神病診察法』等の書物を知り、傍ら『柵《しがらみ》草紙』の文章や医学雑誌(『中外医事新報』)に連載された徳川時代の医学という論文などを読んで見たりした。
明治四十三年十二月のすえに卒業試問が済むと、直ぐ小石川|駕籠町《かごまち》の東京府巣鴨病院に行き、橋健行君に導かれて先生に御目にかかった。その時三宅先生やその他の先輩にも紹介してもらった。明治四十四年一月から、いよいよ先生の門に入り専門の学問を修めることとなったのであるが、先生の回診は病室の畳のうえに据わられて、くどくどと話す精神病者の話を一時間にても二時間にても聴いておられた。それがいかにも楽しそうで、ちっとも不自然なところがない
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