が紅《あか》鉛筆で標《しるし》を打ってある文章の一つに、「精神的養生ト云ヘルモ亦《また》然《しか》リ。整然タル休養ヲナシツツ絶エズ習練スルコト最モ須要《しゅよう》ナリ。知覚ノ能ハ実歴親験ノ重ナルニ随《したが》ヒテ長ジ、記憶ノ能ハ同一ノ観像ヲ屡《しばしば》反復スルニヨリテ長ジ、弁別ノ能ハ原因結果ノ比較ヲ屡スルニヨリテ長ズ。他ノ高等精神作用亦皆習練ニヨリテ育成セラルルコト此《これ》ニ同キモノナリ」というのがある。此《かく》の如く呉先生の著書の幾通が偶然か否か私の手に入ったためか、その頃まだ少年であった私が未見の呉先生に対する一種の敬慕の心は後年私が和歌を作るようになって、正岡子規先生の著書を何くれとなく集め出した頃の敬慕の心と似ているような気がする。私の中学校の同窓に橋健行君がいて、橋君が私よりも二年はやく呉先生の門に入ったということも、私に取りては極めて意味の深いことである。
 明治三十五年の秋頃か、明治三十六年の春のころかに、第一高等学校の前庭で故第一高等学校教師プッチール氏 Fritz Putzier(1851−1901)の胸像除幕式が行われた。その時第三部一年生であった私がおおぜい
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