るが、それがだんだん除かれて行つた。子規ほど病牀《びやうしやう》生活で苦しまなかつただけ、呑気ではなく、鋭いところが未だ消えずにゐる。石川|啄木《たくぼく》などでもやはり同じ径路を取つてゐる。
 そこに行くと樗牛とか梁川などは、趣が違ふ。「我が袖の記」から「清見潟の記」になると余程平淡になつて来てゐるが、やはり感慨が露《あら》はに出てゐる。前二者の客観的なのに較《くら》べて主観的であり、抒情《じよじやう》的である。樗牛がニイチエから日蓮に行つて、アフオリスメン風の文を書いてゐるとき、梁川は荘重で佳麗な見神《けんしん》の文章なんかを書いてゐる。是等《これら》はおなじく、神経の雋鋭《しゆんえい》になつたための一つの証候であるが、これは気稟《きひん》に本づく方嚮《はうかう》の違ひであると謂《い》つていいだらう。樗牛でも梁川でも若くて死んでゐるが、健康な人には出来ない点がやはり存じてゐる。
 森鴎外が、『遺言には随分面白いのがあるもので、現に子規の自筆の墓誌|抔《など》も愛敬《あいきやう》が有つて好い。樗牛の清見潟は崇高だらうが、我々なんぞとは、趣味が違ふ』云々と云つたのは、たいへん面白い。子
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