出来ない。子規も病気になるまへには露伴《ろはん》の風流仏《ふうりうぶつ》などに傾倒したこともあり、西鶴《さいかく》ばりの文章なども書いたのであつたが、晩年の随筆では、当時、露伴が非常に骨折つて書いた「二日物語」の文章をば貶《けな》してゐる。
子規の随筆「墨汁一滴」には、『露伴の二日物語といふが出たから久しぶりで読んで見て、露伴がこんなまづい文章(趣向にあらず)を作つたかと驚いた。それを世間では明治の名文だの修辞の妙を極めて居るだのと評して居る。各人批評の標準がそんなに違ふものであらうか』。かう子規が云つてゐる。子規が写生文を創《はじ》め、細かく平淡なものを書いてゐた時であるから、「二日物語」の文章に厭味を感じたのであらうか。
子規のものは、センチメンタリズムから脱却してゐるが、感慨が露《あら》はでなく沈痛の響に乏しいのは、単に俳人としての稽古《けいこ》から来てゐるのでなく、疾病から来てゐるのである。このへんが芭蕉のものと違ふ点であつて、子規は芭蕉の句にも随分厭味と思はせぶりとを感じてゐるのである。このへんの事は私にはなかなか面白い。
独歩も、もとは甘い恋の新体詩なども作つたのであ
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