倩娘
陳玄祐
田中貢太郎訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)室《へや》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一足二足|自個《じぶん》を
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 王宙は伯父の室《へや》を出て庭におり、自個《じぶん》の住居へ帰るつもりで植込《うえこみ》の竹群《たけむら》の陰《かげ》を歩いていた。夕月がさして竹の葉が微《かすか》な風に動いていた。この数日の苦しみのために、非常に感情的になっている青年は、歩いているうちにも心が重くなって、足がぴったりと止ってしまった。……もうこの土地にいるのも今晩限りだ、倩《せい》さんとも、もう永久に会われない、これまでは、毎日のように顔を合さないまでも、不思議な夢の中では、楽しみをつくしておったが、明日この土地を離れるが最後、もうその夢さえ見ることもできなくなるであろうと思った。宙は伯父の張鎰《ちょういつ》が恨《うら》めしくなってきた。
 小さい時から衡《こう》州へ呼び寄せられて倩娘《せいじょう》といっしょに育てられ、二人の間は許嫁《いいなずけ》同様の待遇で、他人に向っておりおり口外する伯父の詞《ことば》を聞いても、倩娘は自個《じぶん》のものと思うようになり、厳しい当時の道徳では、小さいときのように同席することはできなかったが、それでも二人の間には霊感の交渉があって、女の方のことは判らないが、宙の方では夢の中で倩娘ととうに夫婦となっていた。ところで、その倩娘は伯父の幕僚の一人に許された。
 ……それにしても、伯父は何んと云う不誠実な男であろう、これが恩義のない他人であったなら、俺《おれ》はこんな男に対して、どんな手段を取るだろう、俺が蜀《しょく》の都へ往《ゆ》くのは、拗《す》ねて往くのではない、苦しいから逃げて往くのだ、何《いず》れにしても、俺の事情を知っておる者ならどちらかに解釈すべきはずだ、それだのに、伯父はどうだ、お前を手離しては、自個《じぶん》の小供と離れるも同じことで、淋しくてならない、不自由なことがあれば、何んでも言うなりになってやるから、此処《ここ》におれと云っている、それは別に心にもないことを云っているでもないらしい、だが、倩さんとの関係のことは、綺麗《きれい》に忘れてしまったような顔をしている、真箇《ほんとう》に忘れたとは云わさないぞ、と、宙はまた伯父の心理状態を考えて見た。
 ……やっぱりとぼけているんだ、狸爺《たぬきおやじ》だと、宙は眼の前に醜悪な伯父の姿が立っているような気がした。彼の心は憎悪に燃えた。
「宙さん」
 宙は驚いて眼を瞠《みは》った。従妹《いとこ》の倩娘が竹にそうて立っていた。
「倩さんか」
 宙は倩娘の傍へ寄って往った。宙は倩娘の眼に涙を見つけた。
「倩さん、いよいよあんたとも別れる時が来た、私は明日都へ往くことになった」
 倩娘は両手で顔を隠してしまった。倩娘は泣きだした。
「長い間、あんたにも厄介になったが、これも一つの運命だ」
 宙の片手は女の肩にかかった。女は全身を投げかけるように体を寄せて来た。と、宙が今歩いて来た方から跫音《あしおと》が聞えて来た。
「何人《たれ》か来たようだ、では別れよう、体を大事になさい」
 宙は女と離れてその前にある小門《こもん》の口の方へ歩いて往った。宙はその時女の足が一足二足|自個《じぶん》を追って来たように感じた。

 朝になって宙は伯父の張鎰《ちょういつ》をはじめ、その幕僚などに見送られて、船に乗って出発した。
 宙は船の中にいても、倩娘のことばかり考えていた。そして、その考《かんがえ》は昨夜《ゆうべ》の新しい倩娘の涙と結びついた。微月《うすづき》に照されて竹の幹にそうて立っていた、可憐《かれん》な女の容《さま》を浮べると、伯父に対する恨《うらみ》も、心の苦痛も、皆消えてしまって、はては涙になってしまった。
 夜|晩《おそ》くなって船は土手に沿うて進んでいた。宙は倩娘のことが頭に一ぱいになっていて眠られないので、起きて船べりにもたれていた。微赤《うすあか》い月が川にも土手の草の上にもあった。
 ばたばたと走って来る人影が土手の上に見えた。この夜更けにどうした人であろうと思って、見るともなしにそれに眼をやった。
 人影は近くなって来た。それは若い女らしかった。悪者《わるもの》に追かけられた者であろうか、それとも、親や良人《おっと》に大事なことでもあって、走っているものであろうか、聞いたうえで都合によっては、この船で送ってやってもいい、どうせ急がない旅である……。
 宙はこう思って、船と女との並行するのを待っていた。
「宙さん、宙さんではありませんか」
 宙は驚いて眼を瞠《みは》った。声なり、姿なり、それは確《たしか》に倩娘であった。
「倩さん、倩さんか」
「え、え、私よ、宙さん」
 倩は
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