急いで船を岸へ着けさした。
「どうして、来たのです」
倩娘は倒れ込むように船の中へ入って来た。いたいたしい跣足《はだし》の足元が見えた。
「跣足じゃないか、一体どうしたのです」
倩娘は宙にすがりついて泣いた。
「私は、私は、貴君《あなた》のことが気になって、立っても、いても、いられなくなりましたから、家《うち》を逃げだして、夢中になって走って来ました」
「倩さん、あんたの心が判った、私は伯父さんに、もう何んと思われてもかまわない、決してあなたを離さない」
二人は蜀へ往って暮した。五年の間に二人の小供ができた。その時分になって倩娘は父と母のことが気になって、衡州へ帰りたくなった。
「私は、お父さんやお母さんに会って、お詫びをしないと、気がすみません、どうか衡州へ帰ってください」
宙もそれを思わないでもなかった。
「わしも、そのことは思ってる、ではお詫びに帰ろう」
二人は小供を伴《つ》れて船で帰って往った。
船が衡州へ着くと、宙は倩娘と小供を残しておいて、一人で張鎰の屋敷へ往った。
「私は王宙でございます、伯父さんにお取次ぎをねがいます」
宙は取次ぎの男が引込《ひっこ》んで往った後で、伯父に向って云う謝罪の言葉を考えながら黙然《もくぜん》と立っていた。
「王宙が帰って来たと云うのか、待ち兼ねていた、取次ぎも何にも入《い》るものか、さあ、早くあがって来るがいい」
聞き覚《おぼえ》のある張鎰の声がして、そそくさと跫音《あしおと》がした。宙は不思議に思って顔をあげた。伯父の張鎰が機嫌のいい顔をして立っていた。
「さあ、他人行儀はいらんことだ、早くあがるがいい、伯母さんもお前のことを云って待ち兼ねてる」
「ほんとに相済《あいすま》んことをいたしております、今日は、お詫びに帰りました」
「何のお詫びをすることがある、さあ、あがるがいい」
「そうおっしゃられると、穴へ入りたいほどでございます、倩娘もいっしょに帰って来ておりますが、伯父さんのお許しを得てからと思いまして、船へ残してまいりました」
張鎰は驚いて眼を瞠った。
「倩娘、倩娘がどうしたと云うんだ、倩娘はずっと病気だ、お前が蜀へ往ってから間もなく病気になって、約束の婚礼も破談にして、それからずっと寝てるんだ、そんな馬鹿なことがあるものか」
宙も不審が晴れなかった。
「でも、確《たしか》に、倩娘は私が蜀に往く時、私の船を追っかけて来ましたから、伯父さんには相すまんと知りつつ、いっしょに蜀へ往って、二人の小供までできました、小供もいっしょに伴れて来て、船の中に残してあります、嘘とおっしゃるなら、いっしょに往ってください」
「そんな馬鹿なことがあるものか、倩娘は確に寝てる、そんなことはない」
張鎰は家の者を船へやった。船には倩娘がいて、小供といっしょに帰って来た。張鎰は驚いて自個《じぶん》の家で寝ている倩娘の枕頭《まくらもと》へ往った。
「へんなことができた、お前の名を騙《かた》って、宙と夫婦になった奴があるぞ」
これを聞くと、寝ていた倩娘はにっと笑った。そして、急に起きあがって、髪をかき、着物を着かえて、入口の方へ出て行った。張鎰は驚いてその後から踉《つ》いて往った。
其処《そこ》へ船にいた倩娘が小供を伴れて入って来た。それは寝ていた倩娘とすこしも違わない女であった。張鎰はじめ皆があっけにとられて見ていると、二人の倩娘の体は急にぴったり引ついて一人の女となった。
底本:「書物の王国11 分身」国書刊行会
1999(平成11)年1月22日初版第1刷発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年9月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
陳 玄祐 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング