らでもある、その中には淺間の裾野で摘み取つて押し花にしたすずらんなどが、まださはやかに疊みこまれて殘つてゐたりするけれども、大久保時代のものとては、今云つたとほり短信より外に何もない。
 その短信のうち、一番最初のものは「出京仕り候、五月二日」とあるだけである。ところがきは西大久保四〇五とあり、「新宿より數丁、鬼王神社の側」と注意がしてある。その鬼王の文字に「キワウ」と假名づけがしてあるなど、いかにも藤村君らしいこくめいさである。郵便局の消印と對照すれば、それが明治三十八年であることもよくわかる。その鬼王神社の通筋はその頃漸く開けかけで、藤村君の寓居はたしか植木職の持家になつてをり、新築中から豫約がしてあつたといふやうにおぼえてゐる。豫約と同時に部屋の構造に注文がつけてあつた。それがまた藤村君の性格を遺憾なく發揮してゐた。家は極く普通の四室ぐらゐのさゝやかさであつたが、書齋となるべき一室が主人公の意匠の加はつたもので、まづ類のないものであつた。素より月並な文化的裝飾のあらうはずもなく、ただオリーブ色に染めさせた木綿の壁かけやうのものが自慢であつたものゝ、大體部屋を地床におとしてあつたの
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