緑蔭叢書創刊期
蒲原有明
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【テキスト中に現れる記号について】
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から2字上げ](明治四十二年)
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)藤村君はその後いよ/\坐りつづけて
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藤村君のこれまでの文壇的生涯を時代わけにして、みんなが分擔して書きたいことを書きとめておくのもよい企である。わたくしには「若菜集」の出るやうになつた頃のことを書かぬかどうかといふ相談があつた。しかし藤村君とのつきあひは「夏草」出版直後からであるから、若菜集時代、即ち文學界末期頃とは全く無關係であつた。さういふわけから、それでは大久保時代をとの注文が出た。
さてその大久保時代を引うけて書くだんになると、その時期が短かかつただけに、格別これはといふ材料がない。その大久保時代にしても、ざつと今より二昔前のことである。ことに健忘なわたくしのことゆゑ記憶がかすんでゐる。止むをえず古い手筐をひきあけて調べてみたが、その時分のものでは葉書が二三枚出たまでゝあつた。五六年もつづいた小諸期のものならば長文の書簡がいくらでもある、その中には淺間の裾野で摘み取つて押し花にしたすずらんなどが、まださはやかに疊みこまれて殘つてゐたりするけれども、大久保時代のものとては、今云つたとほり短信より外に何もない。
その短信のうち、一番最初のものは「出京仕り候、五月二日」とあるだけである。ところがきは西大久保四〇五とあり、「新宿より數丁、鬼王神社の側」と注意がしてある。その鬼王の文字に「キワウ」と假名づけがしてあるなど、いかにも藤村君らしいこくめいさである。郵便局の消印と對照すれば、それが明治三十八年であることもよくわかる。その鬼王神社の通筋はその頃漸く開けかけで、藤村君の寓居はたしか植木職の持家になつてをり、新築中から豫約がしてあつたといふやうにおぼえてゐる。豫約と同時に部屋の構造に注文がつけてあつた。それがまた藤村君の性格を遺憾なく發揮してゐた。家は極く普通の四室ぐらゐのさゝやかさであつたが、書齋となるべき一室が主人公の意匠の加はつたもので、まづ類のないものであつた。素より月並な文化的裝飾のあらうはずもなく、ただオリーブ色に染めさせた木綿の壁かけやうのものが自慢であつたものゝ、大體部屋を地床におとしてあつたの
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