も及ばぬことである。しかも凶事はいやが上にも迫りかゝつて、小諸で育てられたいたいけな令孃たちは、次から次へと、おなじ病魔の手に捉はれて亡くなつてゆかれた――わたくしは今率直にかう云ひ切つておいて、この事實にはあまり深入りしたくない感情に責められてゐる。なぜなれば藤村君はこれも矢張一の分身に外ならぬ「破戒」を藝術界に送り出す代りに淺間の麓で生ひたつたすずらんの花にも比ぶべき愛兒をことごとく、まがつみの犧牲にさゝげられたやうにも當るからである。
第三の葉書には、同じ年の九月二十七日附で、「大に貴説に反抗いたし定めしにくきやつとの感情を抱きて御歸宅相成りしかと思へば心苦しくこの葉書差上候次第」とある。どういふ風の議論であつたか、それはすつかり忘れてしまつて語るべき端緒も見出せないが、わたくしが象徴主義に夢中になつてゐた折であるから、恐らくはそんなやうな話題からでもあつたらう。それよりもわたくしにとりておもひだされることは、ある日(翌三十九年五月の交か)君を訪ねての歸りに近所までといつて送つて來られた。裏口からすぐ麥畑につづいてゐる。丁度麥の出穗が揃つてかげろふが蒸してゐる中を、肩をならべながら語り合つたが、藤村君の言葉はいつものとほり結局は限りなき人生の愛慾といふことに落ちていつた。これはそのをりの情景が忘れかねるものがあるので序に書きそへておくまでのことである。
西大久保から淺草の風流の巷のちかくに居を移されたのは、三十九年も秋に入つてからのことであつたらう。
藤村君はその後いよ/\坐りつづけて創作に精進されたのである。自我に徹した沈靜な魂の前に底ひもわかぬ愛慾の世界が開展する。そこに何といつても藤村君の藝術境がある。西歐の文人と比較するならば、そこにフローベルの魂との共感が認められるといつてよい。藤村君の人生記録はかゝる魂の仕事場から鍛へ出されたのである。かくして必死の覺悟を以て創められた緑蔭叢書も、「春」を出し「家」を出すに到つてその藝術境は殆んど極所に到つたものと見られるのである。
[#地から2字上げ](大正十五年四月)
底本:「明治文學全集 99 明治文學囘顧録集(二)」筑摩書房
1980(昭和55)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「飛雲抄」書物展望社
1938(昭和13)年12月10日
初出:「文章往來」
1926(大正1
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