い。雜駁からは遠ざかつて、しかも却て風變りの趣がある。わたくしの眼底にはこの亭の印象がこびりついて忘じ難いものゝ一つとなつてゐるのである。
 第二囘の會合は赤城下の清風亭で開かれたが、新に眉山、秋聲の兩君も加はり、水彩畫家の大下藤次郎君の出席もあつたやうにおぼえてゐる。第三囘は風葉、春葉兩君の幹事で、會場は鬼子母神境内の燒鳥屋であつた。小山内君が馳せ參じたのも多分この時であつたらう。會合は追々度數を重ねていつたが、その席上いつも音頭を取つたのは矢張柳田君であつた。纏つた話、新知見を開くやうな話を柳田君は常に用意されてゐたのである。例へばポオル・ブウルジエの作物である。柳田君はその作物を讀んで來て、その梗概と讀後感に就て話をするといふやうな次第である。ブウルジエの小説はその後も殆んどわたくしとは沒交渉であつたが、その日柳田君の携へてゐた短篇集は青色の表紙の本であつた。その事だけをわたくしは記憶してゐる。
 會合の場所は幹事の好みに隨つて變つたが、便宜がよかつたので多くは快樂亭を使つてゐた。そのうちに獨歩君が鎌倉の廬を出ることになつた。矢野龍溪翁に招かれて、「近事畫報」の計畫に參加するためであつた。この畫報が間もなく日露戰の勃發により「戰時畫報」と改稱されてから獨歩君の活躍は目ざましいものがあつた。自然我々の會合は獨歩君を迎へることになつて、急に賑はしくなつた。獨歩君は柳田君と共に談話の名人であつた。獨歩君の創作はおほむね小篇であり、人はその描寫の筆致を褒めるが、作者はその筋を大抵二三度は友人に繰り返し語つたものである。推敲がその間に行はれたと想像するのは強ち不當でもあるまい。然しわたくしは後に書かれて公にされた作品よりも、既に聽いて感銘を受けてゐた談話の方をよろこんだ。そしてその談話の熟したものが獨歩君の創作であつたとすれば、そこに談話家の特徴を爲すユウモアが活用されてゐることを怪しむべきではない。それが間髮を容れず打出されて一瞬の反省を與ふると同時に、その餘裕ならぬ餘裕が歪曲すべからざる客觀の事實を愈々鮮明ならしめてゐる。これがわたくしの發見であるかどうかは別として、柳田、國木田兩君の外に田山君もまたしたゝかの談話家であつた。會合は否が應でも面白くならざるを得なかつたのである。然しこの頃となつても定まつた會名もなかつたぐらゐで、それが龍土會と稱せられるまでには、なほ
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