云ふより外はない。
この氣儘な會員たちは、かくして十年の歳月を經て、首尾よく龍土會の塒を飛び立つてしまつたのである。季節の折目が來たからである。
明治三十五年から十年間といへば、明治革新史上、收獲の夕であると同時に更に播種の曉でもあつた多事多端な時代である。日露戰爭が丁度その眞中にはさまれてゐる。龍土會はこの十年間をからんで、動搖と刺戟、興奮と破壞、麻痺倦怠等、あらゆる變調の中に生息して來たことにわたくしは深い意義を感ずるのであるが、この會も前に述べたやうな事情で、初めから會名が定つてゐたのではなかつたのである。
そもそもの起りはかうである。話好きの柳田國男君がをりをり牛込加賀町の自邸で花袋、藤村、風葉、春葉、葵(生田)諸君と、それに自分も加へられて招待された會合があつた。この會には柳田君の學友で、後に派手な政治の舞臺に活躍することゝなつた江木翼さんの顏も見えた。それから暫く經つてその會を表に持ち出すことになつて、矢張同じ連中の顏ぶれで、その第一囘が麹町英國公使館裏通りのさゝやかな洋食店快樂亭で催された。明治三十五年一月中旬のことである。その時わたくしが肝入であつたといふのは、會場がわたくしの家に近かつたからでもある。この店は生田君などとは馴染が深かつた。その頃同じ區内の元園町に巖谷小波さんの住居があつて、木曜會といふのが設けられてあつた。これも極めて自由な會合で、わたくしは會員ではなかつたが、年中開放されてゐた巖谷さんの家の下座敷へしばしば出入したものである。玄關には澁い顏を時々思ひ出したやうににつこりさせる老執事が机を控へてゐたことをおぼえてゐる。たまには一六先生の義太夫の聲が奧の間から傳つてくるのを聽いたこともある。小波さんの門下であつた生田君として見れば、この界隈は綱張内のことゝて、快樂亭を會場とするやう、わたくしにすゝめたものと思はれる。實際快樂亭は我々が會合を開くには恰好な店で、場所も靜かであつた。坂路に寄せて建てた二階家で、食堂の方は一室ぎりであつたが、坂の上から平たく直に入れるやうになつてゐた。さういふ風の建て方であるから、料理はすべて下から運び上げるのである、入口には絡みつけた常春藤の青い房が垂れてゐた。表に向つた窓からは、折からの夕日に赤褐色に温く染められた公使館の草土手とその上につづく煉瓦の塀が眺められるのみである。單調ではあるが俗ではな
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