石蒜の球根が附いて来たものから次第に殖《ふ》えたものだろう。今は何一つ、それらしいけはいもないのであるが、追々に彼岸も近づいて来る。或る朝目を醒《さま》して見ると、そこに思いも寄らぬ真紅《しんく》の花が歌っている。舞を舞っている。鶴見はその物狂いの姿を示す奇蹟の朝を楽しみにして待っているのである。静寂な「無」に育《はぐく》まれる遑《あわ》ただしい幻想でなくて何であろう。
田舎道を歩いて見る。路《みち》ばたに何ほどかの閑地《あきち》が残されていて、そこが少し高みになった場所がある。苔蒸した石碑などが傾いたまま草むらに埋もれている。そういうところによく石地蔵《いしじぞう》が据えてある。古い時代の墓地であったのであろうか。珍しくもない鄙《ひな》びた光景であるが、そういうところで、わが彼岸花は、思いのままに村の小供を呼び寄せる。
石蒜の球根はたしかへぼろ[#「へぼろ」に傍点]といった。小供たちはその球根を掘り起して、緒《お》に繋《つな》いで、珠数《じゅず》に擬《なぞら》えて、石地蔵の頸《くび》に掛けて遣《や》る。それだけではすまない。まだまだいたずらをする。球根を磨《す》りつぶすと粘った濃い汁が出る。その汁を地蔵尊の冷たい石の鼻の穴のあたりに塗り附けて見る。そうして手を拍《う》ち合《あ》って囃《はや》したてる。「鼻垂れ地蔵だ。やい」というのである。
鼻垂れ地蔵の由来は、結局そんな無邪気なざれ事で説明せられる。
鶴見はここでふっと考えついた。戦争も下り坂になったころ、べにや板の需要が急にふえて来たと共に、その接著料《せっちゃくりょう》が研究せられた。それには石蒜の球根がいちばん好いとなって、その採集に手を尽しているという事が、新聞紙で報道せられた。鶴見は今それを思い出したのである。
鼻垂れ地蔵の由来が航空機製造にまで応用せられるようになった。しかし考えて見ればそう不思議でもない。石蒜が人里近く繁殖しているということは、やがて石蒜に粘著料としての効用が認められていたからではあるまいか。何に使われたかは分らぬが、強《し》いて言えば、紡織とか染付《そめつけ》とかそういうような工業に一時利用せられたのかとも思われる。そうでなければその他に何か薬用があったものか。勿論これは鶴見が幾度もことわっているとおり、ただの思い附きに過ぎない。
とにもかくにも、その実用性を念頭に置くとき、石蒜が外来植物の一つであったろうかという想像に、その事の可能であるべき理由が附与せられる。
※[#「木+蟶のつくり」、第3水準1−86−19]柳《ていりゅう》のことがある。ぎょりゅう[#「ぎょりゅう」に傍点](御柳)といって、今日では主としていけ花の方で珍重がられている。世間にそう多くはない木である。御柳を知っているのは大抵いけ花界の人たちということになる。それも立木《たちき》のままで見たものはいくらもないであろう。
鶴見は静岡に長年住んでいたが、近所で一本見たきりである。ちょっといぶき[#「いぶき」に傍点]のような趣きがあり、枝先は素直に垂れて、粉紅《こなべに》色の花をつける。あんな常磐木《ときわぎ》にこんな柔かい花が咲くかと思わせるような、奇異で、うるわしい花である。鶴見が見つけたというその木は板塀に囲まれた狭苦しい空地《あきち》に、雑木と隣り合って、塀から上へ六尺位は高くなっていた。それが年に一度は必ず坊主にされる。花屋が切りに来るのである。鶴見はその度ごとに「おや、おや。またか。」そういって苦笑するのを禁じ得なかった。
渋江抽斎《しぶえちゅうさい》がこの木を愛していた。転居するおりには、いつでも掘り起して持って行き、そこに移しうえた。木はそれでも枯れずにいた事は、鴎外の抽斎伝に中に書いてある。何かの薬になるというので、抽斎の家にその木のあるのを知った人々が一枝を貰いに来る。ただそれだけのことが書いてある。別に考証はしていない。
※[#「木+蟶のつくり」、第3水準1−86−19]は唐詩の中でしばしば見当る。※[#「木+蟶のつくり」、第3水準1−86−19]が外来植物であるのは周知の事実である。叡山の根本中堂《こんぽんちゅうどう》の前にその木があるという。鶴見はまだ見ないが、泡鳴《ほうめい》がそれについて一度語ったことを覚えている。伝教大師《でんぎょうだいし》の時代まで遡《さかのぼ》るとすれば、その渡来も随分古いものである。しかしその割に世にひろまっていない。
東京ではその木を見掛けなかったようである。鶴見が始めてその生態に接したのは、初度《しょど》に鎌倉に移ってからのことである。
雪の下の僑居《きょうきょ》の筋向いに挿花《そうか》の師匠が住んでいて、古流では名人に数えられていた。その家の入口の前坪《まえつぼ》に四つ目を結《ゆ》って、その内側に、やっと四、五尺に伸びた御柳がうえてある。瀟洒《しょうしゃ》としたたたずまいが物静かな気分をただよわせている。そのために狭い場所も自然にくつろいで見えるのである。鶴見は日々の出入に、その家の前を、目を掛けて通らぬことはなかった。
それがどうであろう。今度またこの地に戻って来て見れば、そのあたりはすっかり様子が違っている。その家の主人は上田といった。それから二十五、六年は立つ。上田さんも存命であらばよほどの高齢と思われる。その後どこかへ引移ったものであろう。門札《もんさつ》は名前が変っていた。入口にあった御柳も姿を見せない。
その当時、鶴見の仮寓の真向いは桶屋《おけや》だった。頗《すこぶ》る勤勉な桶職で、夜明けがたから槌《つち》の音をとんとん立てていた。その音に目を醒ますと、晴れた朝空に鳶《とんび》が翼をひろげて、大きく輪を描いて、笛を吹いている。
鶴見が寓居のすぐ奥の隣家には海軍の尉官が住《すま》っていた。子供が二人ある。よしという若い女中が働いている。朝食の済むころには、かしらの四、五歳になる男の子が、玄関の格子戸《こうしど》に掴《つか》まって、這い上ったり下りたりするのが、まるでお猿のようである。そこへ女中が風呂敷を持ったまま出て来る。
「よしや。どこへ往《ゆ》くの。」坊ちゃんはいつもの問を繰り返す。
よしやは黙っている。
「よしや。よしやってば。どこへ往くのだい。」
「よしやはこれからお使にまいります。坊ちゃんも一しょにお出でになりますか。」
よしやはこういって、ずんずん格子戸を開けて出て往こうとする。
「うん。一しょに往くよ。」坊ちゃんは遑《あわ》てて格子戸から降りて、下駄を穿《は》いて、よしやのあとを追うようにして、走って出掛ける。
これが日々の行事である。
鶴見は部屋に引き籠っていて、その時分はよく『起信論』を披《ひら》いて読んでいた。そして論の中でのむずかしい課題である、あの忽然《こつねん》念起をいつまでも考えつづける。そうすると、今しがた出て往った隣の坊ちゃんが、まざまざとまた心眼に映る。
坊ちゃんは格子戸《こうしど》につかまって昇り降りするが、その格子戸が因陀羅網《いんだらもう》に見えて来る。坊ちゃんは無心で戯《たわむ》れる。あそびの境涯で自在に振舞っている。よしやが使に遣《や》られる。よしやが誘う。衆生心《しゅじょうしん》の無念が忽《たちま》ちに動く。坊ちゃんはよしやに跟《つ》いて、石に躓《つまず》きながら駈けて出る。
「そうだ。これが忽然念起だ。」
頭のなかを、そんな考が、たわいもなく、ふと閃《ひらめ》いて過ぎる。
しかし鶴見はそれ以上深入りすることを恐れた。はっきりとではなかったが、あまり唯心の妙説に牽《ひ》かされて、理心の中で抽象されたくはなかったからである。ただ『起信論』が衆生心に据わって物を言っているのが親しまれた。
鶴見は鶴見で、『起信論』とは不即不離の態度を取って、むしろ妄心起動を自然法爾《じねんほうに》の力と観て、その業力《ごうりき》に、思想の経過から言えば最後の南無をささげようとしているのである。魔を以て魔の浄相を仰ぎ見ようとするのである。鶴見はそういうところに信念の糸を掛けて、自然に随順する生を営んで行こうとしている。つまるところ、無を修して全を獲《う》る。そこで日々の勤めは否定されねばならない。その最後の一線はどうして踏《ふ》み踰《こ》えるか。ここで逡巡することは許されない。
その最後の一線を踰えるには自然の業力を頼みとするより外《ほか》にないのである。至上の力を頼んで最後の線を踰える時、そこに新に生ずる何物かがあるであろうか。鶴見に言わすれば、それが即ち第二の創造であるというのである。
ファウストは書斎の場で、『ヨハネ伝』のロゴスを翻訳しようと苦心する。語、意、力、業の四様に翻訳の順序を立てて考えて見る。鶴見はそこを『ファウスト考』の解釈によって読んで見て、面白いと思った。鶴見はこのファウストの思想を、おれの平生考えている思想にまるで無関係ではなさそうであると思って見たからである。
隣の坊ちゃんは日々の勤を無意識で行っている。それがあそび[#「あそび」に傍点]である。我々衆生が無心であり得るのはあそび[#「あそび」に傍点]の境界《きょうがい》においてのみである。我々は小供とは違って、いつでも無心ではあり得ない。否定の最後の線を踰える時に、やっと得られる無心である。これは勿論時間的にいうのではない。日々の行事の到るところに、この最後の線は張られているのである。
隣の坊ちゃんを竜宮《りゅうぐう》小僧に擬《なぞら》えて見る。ここでは坊ちゃんは海表《かいひょう》の世界から縁あって、鶴見に授けられたものとする。坊ちゃんは打出《うちで》の小槌《こづち》を持って来る。そして無心で、いろいろの宝を、その小槌から打出しては、それを惜しげもなく鶴見に贈る。こういう考が鶴見の心の隅《すみ》の、どこかの曲《くま》に蟠《わだかま》りはじめた。憑《つ》きものに魅せられたようである。
思想はさまざまに動く。それはそれで好いと思い返しても見る。芸術の複雑性はそこから生まれて来る。その作用は豊饒でなくてはならない。ここに芸術のコルヌコピアがある。打出の小槌がある。
鶴見はそんな事にまでも思を馳《は》せて、二十余年の昔の夢から今日に及ぼして、それを心の中に繰り返して見て、『起信論』全体を納得しようと念じているのである。
蘭軒伝の中で、鴎外が特に二章を費して考証しているものに楸《しゅう》がある。これも外来植物である。丹念に検討したあとで、実際的智識に富んでいる、その道の人としての牧野さんに頼んで、説明を求め、最後の解決がつけてある。極《ご》く約《つづ》めて言えば、楸はわが国のあずさ[#「あずさ」に傍点]かきささげ[#「きささげ」に傍点]かという疑いである。牧野さんはいう。普通あかめがしわ[#「あかめがしわ」に傍点]を梓《あずさ》に当てているが、昔わが国で弓を作った木は、今でも秩父《ちちぶ》であずさ[#「あずさ」に傍点]と称している。この方には漢名はないということである。鴎外は専《もっぱ》ら漢土の文献について説を立てているのであるが、楸は漢土では松柏《しょうはく》の熟語と殆ど同義に用いられ、めでたい木で、しかも大木になるとある。普通の辞書にはあかめがしわ[#「あかめがしわ」に傍点]に梓字を当てて、版木《はんぎ》に使われるとある。上梓《じょうし》とか梓行とかいうのはそれであろうか。そして見ればむこうでいう梓はあかめがしわ[#「あかめがしわ」に傍点]かとも思われる。牧野さんはまたいう。あかめがしわ[#「あかめがしわ」に傍点]は上野公園入口の左側の土堤の前に列植してある。きささげ[#「きささげ」に傍点]は博物館の庭にあると。鴎外はこれに附記して、自分は賢所《かしこどころ》参集所の東南に一株あったと記憶するといっている。
きささげ[#「きささげ」に傍点]は『万葉』に出ているひさき[#「ひさき」に傍点]のことである。鴎外は『万葉』のひさき[#「ひさき」に傍点]には少しも触れていない。鶴見はそのひさき[#「ひさき」に傍点]について書いて置きたいこと
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