がある。
『万葉』では楸をひさき[#「ひさき」に傍点]と訓《よ》ませてある。ひさき[#「ひさき」に傍点]というのは、辞書で見ると、久しきに堪《た》える意味からその名を得たという一説を挙げている。そんなわけで、賢所の前庭に植えてあったのであろう。この説にはしばらく疑を存して置いて好い。外来植物としてこの木を数えることが既に明らかな事実である以上、楸字はその木と共にわが国に伝ったものであろう。即ち楸の実物提示であったに違いない。渡来僧か、こちらから行った留学僧かがその称呼をあらわす文字をその実物と共に持って来たものに違いない。そうであれば、唐時代には楸はこちらになかった木で、『万葉』でひさき[#「ひさき」に傍点]と和訓が施されるまでにやっとなっていたものに違いない。『万葉』のひさき[#「ひさき」に傍点]が今日のきささげ[#「きささげ」に傍点]ならば、楸はその当時あかめがしわ[#「あかめがしわ」に傍点]ではなかったはずである。

 さてこのひさき[#「ひさき」に傍点]は奈良の都の佐保川《さほがわ》の畔《ほとり》などに、川風に吹かれて生長していたようである。渡来した理由はやはり薬種に関係があったからであろう。その実はささげ[#「ささげ」に傍点]豆のような形で、房になって枝ごとに垂れ下る。一本の木からかなり多量に取れる。そんなわけからきささげ[#「きささげ」に傍点]の名称が起り、それが後世では広く行われた。夏の土用のころ、莢《さや》のまだ青いうちに採って蔭干《かげぼし》にして置く。利尿剤として薬種屋でも取扱い、今でもなお民間で使っているのがそれである。
 鶴見はここまで考えつづけているうちに、心に一つの顔を思い浮べていた。記憶の鏡にぼんやり映っているのである。よくよく見れば、それは鶴見自身の困ったような顔である。
「あれには本当に困ったなあ。ほら、あの日除《ひよけ》にもなるといって、青桐代りにうえさせたきささげ[#「きささげ」に傍点]だよ。土用時分になると、毎年忘れずに、向いの家からその実を貰いに来たものだ。老人がいて、寝たり起きたりしている。薬にするからだといってたね。」
「そうですとも。うちでは入用がありませんから、いくらあげても好かったのでございます。ちっとも惜しくはなかったのですが、梯子《はしご》を掛けたり、屋根に上ったりして、高い枝から実を取って遣《や》るのでしょう。一仕事でございましたよ。」曾乃刀自はこういって、娘の静代を顧みて、いかにも同感に堪えないというような表情をする。
「それにまた実を取らないでそのまま附けて置くと、冬になってからあの莢がはじけて、古綿のようなこまかいものが飛び出して来ましたね。そこらじゅうを埃《ほこり》だらけにします。それを掃除するのが骨折でございました。」
 家人たちは、きささげ[#「きささげ」に傍点]にはよくよく懲《こ》りたものと見える。鶴見は苦笑しながらも、あの向いの家の年寄りも戦災後どうしたことやらと思ったりして、気の毒がっている。
 そんなやかましい楸もすっかり焼けてしまった。

 渡来植物といえば、なお一つ気に掛けていたことがある。夾竹桃《きょうちくとう》である。鶴見は明治二十五年の夏になって、はじめて夾竹桃を実見した。ところは沼津の志下《しげ》で、そこに某侯爵の別荘があった。引きめぐらした伊豆石《いずいし》の塀の上に幾株かの夾竹桃が被《かぶ》さって、その梢《こずえ》を茂らせていた。淡紅色で重弁の花が盛に咲いている。木の性《しょう》はまるで違うが、花の趣が遠目《とおめ》にはどこか百日紅《さるすべり》に似たところがある。その後も志下にはたびたび往《い》ったが、駐在所《ちゅうざいしょ》の傍《わき》などに栽植せられているのを見るようになって来た。だんだん広く鑑賞せられて行くものらしい。切枝を地に挿して置けば悉《ことごと》く根が附く。三、四年もすれば花をもつ。これほどたやすく繁殖する木は、柳などを除いては、先ずないものかと思われる。
 それから二年立って、明治二十七年に、鶴見は西遊を企てて九州へ往った。阪神地方の二、三の駅で、また夾竹桃を見かけた。あたりの殺風景に負けてもいずに、あの麗《うる》わしい花を咲かせているのである。花は笑っている。微笑ではない。夏の烈しい日光に照らされて匂う高声の誇らしさを、天分の瑞々《みずみず》しさで少しく和《やわら》げている。そのような笑いかたである。
 鴎外は明治三十九年に九州に往った。『鶏』の一篇は鴎外が小倉に赴任当時の事実と観察との精密な叙述である。行文《こうぶん》がまた頗《すこぶ》る生彩に富んでいる。その中に夾竹桃が出て来る。
 鴎外はその他に、もう一度夾竹桃を使った。それがこれから問題になるのである。

『阿部一族』のうちで、山崎にある阿部の屋敷に討ち入ろうとして、討手のものが払暁に表門の前に来る。その条下に板塀の上に夾竹桃が二、三尺伸びているように書いてある。徳川時代の初期、寛永年代のことである。夾竹桃がその時分既に渡来していたものか、そこに疑が生ずる。
 しかしかかる疑念をうち消すために、こうもいえる。南蛮船が来航し、次で和蘭陀《オランダ》からも遣《や》って来る。支那《シナ》との交通はもとよりのことである。香木の伽羅《きゃら》を手に入れることで、熊本の細川家と仙台の伊達《だて》家との家臣が争っている。この事は鴎外の『興津弥五右衛門《おきつやごえもん》の遺書』に書いてある。そんな時代の趨勢から見れば、夾竹桃ぐらいが伝っているのに、別段の不思議はないと。
 それもそうであるが、果してそうであれば、それ以後の徳川期の文献に、何か記載がなければならない。殊に新奇を好んで飛耳張目《ひじちょうもく》する俳諧者流の手にかからぬはずはなかろう。阿蘭陀西鶴に夾竹桃を読み込んだ一句でもあるか、どうだろう。そんな方面にも鶴見の見聞の領域は狭い。文献の有無を検討するにしても鶴見はまるで不案内である。こんな疑惑は畢竟《ひっきょう》無知のさせる烏滸《おこ》の沙汰である。そうであって欲しいと思って見ても、不審は解けない。
 ただ、それにしても寛永ではあまりに早過ぎる。気にかかるのはそれだけのことである。鶴見の経験から推量しての言草《いいぐさ》であるが、それを手離しでひっ込めようとする気にはなれない。
 鴎外は名を知って物を知らぬということを、『サフラン』の書き出しに述べている。鶴見が夾竹桃の名を知ったのは明治二十五年の夏である。それまではどうであったかというに、東京で生れた彼は、実際のところ、その名をすら知らないでいたのである。名を知ったのは実物を見たのと同時であった。
 この経験からいえば、夾竹桃の伝来は明治十年代でなければならぬように思われる。一個人の偶然の経験というものは確証には供し難い。譲歩はしなければなるまい。それはしようが、いくら譲歩して見ても、馬鈴薯の例などを参照して、先ず徳川時代の末か維新当座の頃ということになる。
 鴎外が『阿部一族』で夾竹桃を使ったのには、何か拠りどころがあったであろう。『「プルムウラ」の由来』を見ると、脚本を書くとき、その現地の時候や花卉《かき》のことまで当って見ねばならぬといってある。鴎外の文の精確であることは、いつもそれだけの用意を欠かさなかったところにある。
 鶴見は今更のように、いらざる疑念を起したものとして、ひたすらに困惑するのみである。
「それにしても無知は致し方がないなあ。誰かの手でおれの無知の蒙を啓《ひら》いてもらいたい。」そういって歎息しているが、疑惑は咀《のろ》われてもなお執拗につきまとって離れない。

 北平《ペイピン》の胡同《フートン》の石塀から表の街路に枝を出して、ここにもかしこにもといったように、夾竹桃が派手に咲いている。鮮やかな装いをした姑娘《クーニャン》が胸を張って通り過ぎる。
 夾竹桃はどうしても近代の雰囲気にふさわしい。

 鴎外には『サフラン』という名文がある。
 サフランは石蒜《せきさん》とその寂しい運命を分け合っている。鶴見がまだ子供の時分、国から叔母が来ていたが、血の道の薬だといって濃い赤褐色の煎《せん》じ汁《じる》を飲んでいた。鶴見にはそれだけの思い出しかない。

 名文といったが、鴎外の名文にもいろいろある。先ず『追儺《ついな》』である。羅馬《ローマ》の古俗がどうのこうのといってあるが、実は文界の魔障を追い払う意味を裏面に含めたものである。劈頭《へきとう》に自然主義が小説をかえって一定の型に嵌《は》め込む迷妄を破してあるのは表向きの議論であるに過ぎない。それをまた鴎外の文壇復帰の弁だとのみ思うのも皮相の見であろう。新喜楽の老婆の体のこなし方の好さから、多年|鍛《きた》われて来たその意気の強さまでが、さながらに、鴎外の魂が乗り移ってでもいるように、あの短い描写の中でまざまざと見える。赤いちゃんちゃんこを着たお上《かみ》の鬼やらいを、鴎外はただ一人で見ている。演者と見者とがそこに合一している。
 そのまた一つは『普請中《ふしんちゅう》』である。鴎外としては最も感慨の深いものであろう。『舞姫』時代の夢がここによみ返って来る。その夢から見ると現在は何と変った姿であろう。また何という気分の分散であろう。身も心も境もおしなべて変っている。普請中の精養軒《せいようけん》で、主人公が外国からやって来た昔馴染《むかしなじみ》の女を待ち受けている。女が来る。主人公はここは日本だと云い云い女を食堂に案内する。給仕が附きっきりである。女がメロンが旨いのなんのという。そして、「あなたは妬《や》いては下さらないのですね」という。中央劇場のはねたあとで、とある料亭で向い合って、おこったり、仲直りした昔のことを思い浮べる。冗談のつもりなのが、はからずも真面目な声になる。女は悔《くや》しいと思う。女と一しょに演奏をしつつ世界を打って廻る相手の男のために、実は鴎外である主人公がシャンパニエの杯《さかずき》を上げる。それに応《こた》えて杯を上げる女の手は顫《ふる》えている。
 それから女を載せた車が銀座通を横切って芝の方へ行く。一|輛《りょう》の寂しい車である。どこにある銀座通やら、どこへ行く車やら。
 その三は『花子』である。巨匠オオギュスト・ロダンの仕事場になっているオテル・ビロンでロダンは晴やかな顔つきをして、許多《あまた》の半成品を見渡している。恐るべき形の記憶力と意思の集中力とを有する異常なこの芸術家は、種々の植物が日光の下で華さくように、同時に幾つかの仕事を始めることが出来る。
 戸を叩く音がする。花子が連れられて来たのである。「おはいり」という声は底に力が籠《こも》っていて老人らしくない。
 通訳に附いて来た医学士は別室でボオドレエルの『おもちゃの形而上学』を読む。ロダンはいう。「人の体も形が形として面白いのではない。霊の鏡です。形の上に透《す》き徹《とお》って見える内の焔《ほのお》が面白いのです。」

 この三篇はいつも識者からはそのどれかが名文だといわれている。鶴見ははじめからこの三つを名文だと思って見ていたのである。芥川竜之介も、鴎外の作中では『普請中』などをよく読めと、人に薦《すす》めている。
 傑作は名文を心としない。内容を重んずればそうもいわれる。しかし名文を伴わぬ傑作が果してあるだろうか。ここでは内容と、その表現形式の一致が望まれている。鴎外にはその一致がある。

『サフラン』がまた名文である。最も簡単であるだけにまた最も純粋でもある。
 鴎外の筆に上ったサフランにも霊はあろう。その霊は鴎外の残るくまなき記述によって、定めし目を醒《さま》して、西欧文物の東漸《とうぜん》の昔をしのんでいることであろう。鶴見はそこが波羅葦僧《ハライソ》の浄土であらんことを、切に願っている。

 重ねていう、『サフラン』は名文である。
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  出生



 人の子が或る日或る所に生れる。
 そういうことを鶴見はぼんやりした気分で考えていた。それはそれなりのことで、殊更に思を費やすにも当らぬように見
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