える。その生れて来た子が凡俗であればあるほど、つまらぬことである。しかし思い返してみれば、その子が生れて来たばかりに、何かは知らず、人間社会の片隅で、抜きさしのならぬ隠れた歴史を営みはじめる。どんな凡庸なものにもその人相応な歴史はあるものである。
 鶴見は今そんな風に思ってみて、凡庸人の歴史を回想の中に探ろうとしている。
 雲ともつかず霧ともつかぬものが一面にはびこって、回想の空間を灰色に塗りつぶしている。それが少しずつ動き出すらしい。鶴見は先ずそのけはいを感じたのである。そして目を据えて雲霧の動きを見極めようとしている。
 雲霧は徐《おもむ》ろに流れて来ては、ふっと滅《き》えてゆく。おなじ動作が幾たびか繰り返される。雲霧は或る所まで来ると、必ずその所で滅えるのである。滅えて滅えて、そのあとがほんのりと明るくなる。
 これは瑞兆《ずいちょう》だ。小さな魂が新しい肉体に宿って現われて来るには、またとない潮時である。生れて来る子のために祝ってやれば、たったこれだけのことでも、瑞兆といっても好い。その外《ほか》に何一つ変ったことも起ってはいないからである。
 もやもやとした雲霧の渦流する中に、一点でも明るいところが示されたこと、そのことを空漠たる回想を辿《たど》って読み取っていた時、果して、その時その家で、平凡な子供が一人生れ落ちた。鶴見は今それを思い出して、こそばゆいような気持になる。どこかに暗愚の痣《あざ》でもくっつけてはいなかったかと、無意識に、首筋のあたりを撫《な》で廻《まわ》している。生れて来たのは、実は、鶴見自身なのである。
 出生した子供はひよわらしい。どうせ娑婆塞《しゃばふさ》ぎであろうが、それでも産声《うぶごえ》だけは確に挙げた。持前の高笑いは早くもその時に萌《きざ》していたものと見える。明治八年三月十五日の事である。ただし生れた時間は分らない。
 鶴見はそれを憾《うら》みとして、繰り展《ひろ》げた回想の頁の上に幽《かす》かな光のさしている一点を、指さきでしっかり押えた。感応がある。ぴったり朝の六時。それでなければならない。彼はそうと、独り極めに極めてしまって、
「おお、これがおれの道楽かな。その子の出生は午前|正《しょう》六時、好い時刻だ。それに三月十五日、明治八年か。それで事はすっかり明白になった。いや、維新変革の後八年。ちょっと待てよ。それでは上宮太子《じょうぐうたいし》御生誕後幾年になる。」
 これには鶴見も途方にくれている。傍《かたわら》に一冊の年表でもあれば頼りになるのであるが、それもない。やっとのことで、大正十年が一千三百年の遠諱《おんき》に当るということに気がついた。『日本書紀』は文庫本でこの頃手に入れたが、その本文から年代の纏《まとま》った知識を得ることは容易でない。年表がやはり必要になってくる。幸に鴎外の集なら借覧を許されていた。その集の中に、ふだんは余り注意しない文章であるが、『聖徳太子|頌徳文《しょうとくぶん》』というのがある。「皇国啓発の先覚、技芸外護の恩師」と冒頭に書き出してある、あの文章のことである。鴎外はこの祭文《さいもん》を太子一千三百年遠諱記念の式場において、美術院長の資格で読み上げたことになっている。大正十年四月十五日である。これは確な資料に違いない。鶴見はそれを手がかりとして、更に平氏《へいし》撰と称されている『伝暦《でんりゃく》』を披《ひら》いて見た。静岡からこの地に舞い戻って来た当時古本屋をあさって『五教章』の講義と共に、最初に購ったのがこの書である。彼の頭にいつも太子がこびりついていた。それでこういった書物は計画的に出ないでも、自然に懐《ふところ》にはいってくる。それを彼は格別怪しみもしないでいる。
 鶴見はその『伝暦』を見て、太子|薨去《こうきょ》の時の宝算《ほうさん》が四十九歳、または五十歳でおわしたことを知った。「そうして見れば、明治八年は薨去後一千二百五十年。それに宝算を加えて、まあ、ざっと一千三百余年になる。計数のことは不得手だが、そんなところだろうな。妙なことをいうようだが、おれの回想のなかで産声をあげた小さな魂は、幸か不幸か、そんな年廻りを身につけて生れて来たのだ。これが歴史の業因《ごういん》というものだ。」

 この時、突如として例の景彦《かげひこ》が現れる。景彦は目を瞋《いか》らしてはいるが、言葉は急に口を衝《つ》いて出てこない。しわがれたような、慎み深いささやきが聞える。それはただの一言である。
「たわけめ。」
 鶴見はこれを聞いてぞっとした。しばらくしてから、こういった。
「生れて来た子供は、よかれあしかれ、そんな運命の枷《かせ》の中で苦しまねばならないのだ。その子供は歴史を作るどころか、定められた歴史の網に縛《いまし》められた小鳥に過ぎない。翼《つばさ》はあっても、自由に飛び立つことも出来ない。社会は彼を手もなく押《お》し潰《つぶ》してしまう。しかし明治維新後八年、上宮太子降誕一千三百余年は、彼自身が彼を記念するには好い年代である。それがただ一つの記念である。誰が何といおうとも、これだけは彼の体から剥《は》ぎ取《と》れない。彼のために彼を笑ってやれ。その笑が痛哭《つうこく》であろうとも、自嘲であろうとも、解除であろうとも、それはどうでも好い。ただ大《おおい》に笑ってやれ。そう思っているのだ。たとえたわけと罵《ののし》られても、彼は満足しているのだ。」
 こういってしまうと、鶴見も少しは胸が晴々とした。景彦に答えるのではない。まして弁解どころではない。鶴見は、この場合、言いたいことを言っただけである。

 景彦の姿は遽《にわ》かにおぼろげになって、遠くかすんで行った。幽微な雰囲気が、そのあたりに棚引《たなび》いている。ほのかな陽炎《かげろう》が少しずつ凝集する。物がまた象《かたど》られて揺《ゆら》めくように感ぜられる。鶴見は、そこに、はからずも、畏《か》しこげな御影《ぎょえい》を仰ぎ見たのである。太秦《うずまさ》広隆寺の桂宮院《けいきゅういん》に納めてある太子の御尊像そっくりであった。左右に童子を随えて、笏《しゃく》を捧げて立たせたまう、あの聡明と威厳を備えた御影である。
 鶴見はうっとりとして目を瞑《つぶ》った。目を瞑りながらもなお御影を仰いでいたのである。
 和国の教主聖徳王の和讃がどこからともなく流れて来ては去る。その讃頌《さんしょう》の声がいつしかしずまる。もはや聞えなくなったかと思うと共に、今まで仰ぎ見ていた御影もまた滅《き》えて行った。

 そして、この娑婆《しゃば》に生れて来たのは、男の児《こ》であった。
 その子の父親はわざと産室に顔を出さずにいる。同宿をさせていた友達の一人と二階に上って、この日はひっそりと話し合っていた。友達というのは同じ郷里から出てきた後輩で、同じ役所に勤めているのである。そこへ下から、男の児が無事に生れたという知らせがあった。
 主人の父親は、無愛想に、そうかといったきり、にこりともしない。友達の方がかえって、「それはめでたい」といって喜んでいる。
 この家の主人は明治の初年に、藩中で三平《さんぺい》の随一と呼ばれたほどの人物の従者になって、あこがれの東京に出てきた。むずかしい表情はしているものの、やはり社会大変革の手が当時の若者に分与した夢を抱いていたのだろう。否《いや》でも応《おう》でも抱かねばならなかった立身出世の夢である。
 今は昔で、既に過去となりきって、どこにも支障があろうはずもなかろうからと、鶴見も打明け話をする気になっている。これまで誰にも語らなかったものだけに、多少気遅れもするが、大木氏の従者となって上京したということも、父から直接聞かされていたのではなかった。これは大木氏の継嗣《けいし》であった遠吉伯の手で、先代伯爵の東京遷都建白等について、その前後の経緯を纏めて編著された冊子があり、その書の公刊を見るに及んで、書中に引用された日記か何かによって、はじめてその事実を知ったぐらいな始末である。
 前に三平といったが、佐賀藩の三平が、江藤新平、大木民平、古賀一平だというのは、ここに事新しく述べるまでもない。江藤氏は周知の如く悲劇に終り、古賀氏は不遇を託《かこ》って振わなかった中にあって、大木氏は伯爵家を起すまでに時めいた。寛仁大度の天資が、変遷ただならぬ世に処して、その徳を潤おした結果かとも思われる。
 そんな因縁《いんねん》から、この家の主人は、あとあとまでも伯爵家の恩顧を蒙りもし、また伯爵家のために、生涯骨身を惜しまずに誠意を尽した。
 この主人がこうして男の児を設けた現在の家に落《お》ち著《つ》いてから、まだ二年とは立っていないようすである。結婚したというものの、それもこの家と地所とを買入れて移って来てからのことであるかどうかさえ、よくは分らない。以前は青山にいた。多分部屋借りをしていたのだろう。その頃はやった文人趣味にかぶれて、画ごころのあったところから、梅や竹なんぞをひねくって、作れもしない絶句を題して、青山居士と署した反故《ほご》が、張《は》り貫《ぬ》きの箱の中に久しくしまってあった。芝の増上寺が焼けたのは、おれが青山にいた時だといっていた。鶴見はその話をかすかにおぼえている。
 主人が結婚したのは青山にいた時か、現在の家に入ってからか、はっきりしないといったが、それが正式の結婚であったかどうかも疑えば疑われる。戸籍の問題などにもその頃は一般に不注意であった。とにもかくにも、この家の主人が既婚者の一人であって、現在妻を郷里に残して置き、しかもその妻に二人の女児を生ませていた。知り得る限りにおいて、これだけはその通りであったと認むるより外はない。
 しからばおれの母は何であったろう。鶴見はこれまでも、幾百たびとなく、その事を思ってみた。彼の脳裡には、絶えず、往来する影がある。その影は解決を得ない不安をにれ噛《か》んで、執《しゅう》ねくも離れようとしない。それが殆ど彼の生涯にわたっているのである。
 考えれば考えるほど胸が痛む。鶴見は堪えられなくなった。はっきりとはおぼえていないがもはやそれから十年は立ったであろう。その彼にも、その苦痛を、冷静に、淡々たる一句に約《つづ》めて表現し得る或る日が到来した。少しばかりの余裕が心の中に齎《もたら》した賜物《たまもの》といっても好い。鶴見にはその日にはじめて発心《ほっしん》が出来たのである。
「おれの母は凡庸な世の常の女であった。それに違いはあるまい。しかしそうであったとしたところで、その母をなんといって、おれにも分り他にも分るようにさせたら好いであろうか。――おお、それ市井の女[#「市井の女」に傍点]。」
 市井の女。ただ一句である。鶴見はこの一句のために、その一生を賭けていたといっても好い。人知れぬ痛苦は彼の心身を腐蝕していた。そして歪められたのは彼の性情であった。
 この市井の女という言葉は、普通ならば、かかる場合に、呪いをこめた文句として吐かれたことであろう。その方がまたふさわしくもある。しかしこれは鶴見が苦しみぬいたあげく、後に到達した冷徹の心境である。鶴見は正直にそう思ったのである。「この一句には信念に通ずるものがある。呪いの言葉であって好かろうはずがない。」
 単にこの句を舌頭に転ずるには、彼に取って、本来余りにも複雑な意義を含む言葉である。鶴見はそこから俳諧の芸術的精神を見極めようなどとしたのでは毛頭ない。鶴見はこの言葉を心の奥の奥、深淵の中で、うち返しうち返してみた後に、すべての暗い雑念を遠離して、この単純なる告白の言葉を得たものと信じている。複雑に徹した単純である。彼は今それをよろこんでいる。わずかに一句の懺悔《ざんげ》が彼を身軽にする。

 聖徳太子四歳の御時《おんとき》のことと伝えられている。みずからその笞《むち》をうけんと、父皇子の前に進んで出られた。兄弟の諸王子たちが互にいさかって叫んでいたのを、父皇子がたしなめようとして笞を取っていられたのを、はやくもそれと知って、諸王子たちは逃げかくれている。太
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