うべ、うべ、味《あぢは》ひのよささや。
身ゆるび、心またたのしぶ。
み国はし今|危《あやふ》きに立ち、
たたかひは言はむやうなし。
きのふはそれの都市焼かれ、
けふはこれの港くやさる。
われらもかたのごとく、
まがつみの火に追はれ、
ここの家をひとへにたのみ、
せぐくまり、かがまりてあり。
しかあるに、この幸《さち》、この芋。
うち食むに、ゑみくづほるるかなや。
うまらや、うまらや、
老もなどおちざらめやも。
神むすび、高みむすび、
その神の神わざ、
蔓《つる》さしていくばくもあらぬに、
宝うもかくも成りいづ。
くすしきは神のみちから、
たくましきは農人のつとめ。
この辛き、烈しき日々を
すこやかに生きねと、
言はいはねども、
この芋のわれらうながす
その諭《さとし》、よく聞け、
よく味へ。

 日の照らす畑よりとりし益芋の
幸《さき》はふさとしよくきけ、
わが子。
 このからきいらだたし世を
足らはすや、芋のひとつさへ
たふときろかも。
[#ここで字下げ終わり]

 鶴見は控帳《ひかえちょう》を検《あらた》めて見た。控帳には当時この長歌を書き放しておいたきり、まだ題名さえも附けていなかった。それをありのままに「蒸しうもの歌|並《ならびに》反歌」と書き添えて、それなりに控帳を閉《とざ》して、擲《な》げ棄《す》てるようにして、側の方へ押《お》し遣《や》った。そしてちと長たらしいなと呟《つぶや》いている。どこかにこだわりがあるらしい。
 この時、突如として、からからとよく響く天狗笑《てんぐわらい》の声が聞えて来た。景彦が意地悪げにこの場に出現して来たのである。
「とうとうあなたも真相を暴露しましたな。蒸し芋の歌なぞ、あれは好い加減なしろ物です。それにご自慢とは。」
「言え、言え。なんとでも言うが好かろう。おれは自作の歌の巧拙を今問うているのではないのだ。おれはだ。一たん荒廃した頭脳のなかにも、いつの代にかこぼれた種子《たね》が埋《う》もれていて、それが時に触れて、けちな芽を出し貧しい花を咲かす。そういうこともあって好さそうに思うからだ。いや、それだけではすまされないのだ。そういう筋道を辿《たど》って究《きわ》めて行けば、思想の開顕という概念が得られそうに思うからだね。真淵の「うま酒の歌」にしろ、あれをおれが推奨するのは、そこに思想の開顕が見られるからだ。『万葉』の大伴卿の「讃酒歌《さけをほむるうた》十三首」にしても同事だ。いずれもが教養の高さと修錬の深さとを示している。真美の芸術はそういう境地に生い立ち呼吸するものだよ。そこでだね。芸術における思想の開顕ということは単なる伝統の復興ではあり得ない。それはむしろ伝統を超越しているのだ。思想の種子のなかに永遠の生命が籠《こ》められている。そこの道理を了解して不易というのも可なりじゃないか。おれは今そんなことを考えているのだ。」鶴見はいつになく強気になる。
 景彦はそれをまた苦々しく思った。
「そうですか。それではあなたも、その高い教養とやらの重荷を背負っている一人なのですな。窮屈ではないでしょうか。」
「いや。おれだって多少の教養は持っているよ。そうだね。それを重荷とも思っていないが、そのちとの教養のためにとかく自省心が起りがちで、実践力が鈍らされる。それは認めるね。それかといって、教養を欠いては本当の芸術の芽も出ないのだ。矛盾といえば矛盾さ。例えばだね。あの『万葉』の東歌だ。あれなどもその時代の教養人が、遠国にいて、その地方の俗言を取り入れたものだ。ただ名もなく教養もない人々の手で、いわゆる素朴と直情だけで、あの東歌が成ったものとは、おれは信じていない。教養とはそんなものなのだ。この教養が製作を促がすと共に実行を妨げる。この矛盾には悩まされるよ。」
「あなたもかぶとを脱ぎましたね。その自省心とかが曲者《くせもの》ですよ。」
「そうだ。過度の自省心は確に曲者だ。」
「そんなことを繰り返していって見たところでなんにもなりませんよ。そのうちに妥協して万事を解決しようとでもするのですな。そんな言訳なぞするようなことをせずに、拙《まず》いものは拙いものとして、堂々と吐き出してしまったらどうです。そして心を新たにするのですな。」
 景彦は何か腹に据えかねるというように、けしきばんで、たちまちに影を隠してしまった。
 取り残された鶴見は、景彦に大きな翼《つばさ》があって、そのひと羽ばたきで払《はら》い退《の》けられるような強い衝撃を受けたのである。
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  「朝目よし」



 ここ数日はつづいて梅雨時のような天気|工合《ぐあい》である。
 夕がたに少し晴間が見えるかと思うと、夜分はまた陰《くも》り、明がたには雨がさっと通りすぎる。そして朝からどんよりしていた空が午後はいよいよ暗くなって小雨が降り出し、晩景にはちょっと雲切《くもぎれ》がして夕日が射す。不定な気象がそんな調子でぐずついている。
 それがどうだろう。きょうは鶴見が朝早く目を覚してみると、もうとうに鮮かな日光が西の丘の小高い頂を輝かしている。いつもの通り座敷を掃除させて、机の前に端坐し、そして向うを眺めて好い気持になっている。端坐するということは、鶴見にはいつからか癖になっているので、厳格な意味でわざわざそうするのではない。一つは子供の時からの家庭の躾《しつけ》によるのであるが、父が言葉少なに忍耐を教えた指導法が、どんなにストイックなものであったかはさて措《お》いて、そうするのが、つまり彼には勝手になっていたからである。長時間坐っているのには、あぐらを組むよりも正坐が好ましい。合理的でもある。鶴見はそう思って、机に向うときはいつも正坐をする。書見《しょけん》をするにも体が引締められて、まともに本が読める。長年にわたるそうした経験が今ではならわしとなって身に附いているのである。

 鶴見は障子《しょうじ》を開け放ったまま、朝の空気を心ゆくばかり静かに吸っていた。そしてこう思った。爽《さわ》やかな空気なら遠慮なくたっぷり吸える。いくら吸っても尽きることはない。乏しい煙草をがつがつ吸うよりも遥《はるか》に増しだと思っているのである。
 彼も若い頃は一廉《ひとかど》の愛煙家であったに違いない。少し喫《の》み過ぎたと気が附いて、止めようとして、初手《しょて》は誰でもする代用品を使ってごまかした。それではいけない。たとえ代用品であろうが、その方へ手を出すのがいけないのである。煙草がなかなか止められないのはこの手を出すという習慣が止められないからである。代用品であっても、見ずにいられるように手を出さずに済ましていられるようになることである。こうやってみても絶対に禁煙するまでになるにはおよそ一年かかった。
 薄志弱行になりがちな彼にもなお我慢と忍耐とが、痩せた体のどこやらにその力を潜《ひそ》めていたのであろう。鶴見はこれも父から受けた沈黙の実践によって養われて来たものと反省してありがたく思っている。

 この朝の久しぶりの好天気、それが鶴見には何よりもうれしかった。物を書くにも陽気の変化が直ちに影響する。年を取るにつれて、それがますます著《いちじ》るしくなって来た。何よりも望ましいのは好天気である。鶴見はいう。
「こう遣《や》っていて、新鮮な空気を思う存分吸っていると、おれの精神も遽《にわ》かに羽根を生《は》やして、皺《しわ》の寄ったこのからだを抜け出して、あの日光を浴びて、自由に飛んで行って、舞い遊んでいるような気分になる。まあ一口で言えば仙人修行が積んだというかたちだね。実際そういう修行をした人が昔から日本にだって幾らもあったのだ。おれも禁煙で煙草は楽になったが、もう一つ代用食にも手を出さずに済ます工夫はあるまいかな。気を吸って心を養うのだ。わけなさそうだが」といって高笑いをする。

 庭木のうちでは槙《まき》がいちばん大木であり、丈《たけ》も高い。朝日が今その梢《こずえ》を照し出している。楓《かえで》はうっとうしいくらい繁って来たが、それでもけさは青葉の色が滴《したた》るように見える。
 縁先《えんさき》の左横手に寄って柘榴《ざくろ》が臥《ふし》ている。この柘榴は槙にも劣らぬ老木である。駱駝《らくだ》の背の瘤《こぶ》のような枝葉の集団が幾つかもくもくと盛りあがっている。そして太い幹が地を這《は》って遠呂智《おろち》のうねりを思わせるが、一|間《けん》ばかり這って、急に頭を斜に上の方へと起《た》ちあがらせている。土を破って地上に曝《さ》らされた根株は、大風雨の日に倒されたときのままに置かれてあるのであろう。その根元近くから幹の分れの大枝が出て、これも本幹に添うて斜に腕を押し伸べている。その上に密生して簇《むらが》っている細かい枝までがこの木特有の癖を見せて、屈曲して垂れさがり、その尖《さき》を一せいに撥《は》ねあげる。柘榴の木立《こだち》の姿はそういうところに、魅力がある。
 今は季節であるから盛に若芽をふいているが、仔細に見ると、老木の割に若芽がひどく競《せ》り合《あ》い過ぎるように思われる。鶴見は颱風《たいふう》で一度倒されたということを聞いたのみで、その後の状態については知らされていない。想うに、樹勢は一時衰えていて、それが追々に回復して来たというように見られる。今年は極めて威勢が好い。忽《たちま》ちのうちに若葉が重《かさな》って幹の大半を隠してしまう。花つきの悪いのはそのためであろう。それでも若葉の底の方の、思いもかけぬところから真紅《しんく》の花の蕾《つぼみ》が覗《のぞ》く。二つ三つ咲きかけたのもある。
 そこへ翅《はね》の白い蝶《ちょう》がいちはやく訪れて来て、ひらひらと羽ばたいて、花に即《つ》いたり花を離れたりして、いつまでも花のあたりを去りかねて飛び廻っている。
 そのうちに朝日は柘榴のこんもりとしてそっくり繁って行く若葉の端々を唐棣色《とうていしょく》に染め出し、漸《ようや》くにして濡縁《ぬれえん》にも及んで来る。

 鶴見はこうやって濡縁に及ぼして来た朝日の脚《あし》どりを徐《しず》かにながめていたが、やや暫く立ってから、ふと昨夜読んだ本のことを思い起した。
「おお、そうであった。朝目《あさめ》よしだ。」太い息をつくようにして、ただそれだけのことをいって、また目をつぶった。
 鶴見が読んだというのは『死者の書』である。
 その本のなかでは世に流伝《るでん》している中将姫《ちゅうじょうひめ》の物語が、俗見とは全く違った方角から取扱われている。『死者の書』は鶴見が数年前から見たいと心がけていながら、手に入れ難かった本の一つである。それを昨夜はゆっくり繙《ひもと》くことが出来た。感得という言葉はこういう場合に使われるのであろう。彼はそう思って丁寧にその書を翻《ひるがえ》して行った。すべてが調子を異《こと》にしているので、初のうちは少し取り附きにくい。それでも頁が進んで来るままに、文義を蔽《おお》うているかの如く見えた闇から脱して、読者はふいときらきらしい別天地に放り出される。今までにはあり得なかった暁《あかつき》が開けて来る。鶴見もまた、藤原|南家《なんけ》の一の嬢子《じょうし》と共に風雨の暴《あ》れ狂《くる》う夜中をさまよいぬいた挙句《あげく》の果、ここに始めて言おうようなき「朝目よき」光景を迎えて、その驚きを身に沁《し》みて感じているのである。
 鶴見は今『死者の書』の中でその事を叙述してある一段を想い起して太い息をつく。迢空《ちょうくう》さんが姫に考えさせた「朝目よし」の深い意義が彼が身にも犇《ひし》と伝って来るからである。姫の抱懐する心ばせには縦横に織り込まれる複雑な文彩が動いている。創造の意義である。それゆえに微妙であり清新である。その意義は絶えず生長して行く。

 人間には執心というのがある、この事ばかりはどんな障《さわ》りがあっても朽ちさせまいとする念願がある。それがやがて執心である。子代《こしろ》もなく名代《なしろ》もないその執心は、いわば反逆者の魂となって悶《もだ》え苦しむ。その執念を
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