て好い。むしろ分り過ぎるくらい分っているが、それだけでは納得されない。泡鳴の日常を知るものならば、何が彼を唐突《とうとつ》な行動に導くか、その行動の結果がどのように彼の生涯を彩《いろど》るか、それについての推量はほぼつくことである。泡鳴には常に動いて止まぬ好奇心がある。その発作は自然でもあり、また異常でもある。この矛盾を即座に生ずる烈しい衝動が、その力を以て混同する。そこに泡鳴の行動が彗星の如く出現し発光する。彼に対する批評はいつでもこの衝動的な実行に向けられる。一度念頭に湧き上ったものを、善《よ》くも悪《あ》しくも、直ちに実行する。泡鳴の生活はそれほどまでに簡単である。他人の批評はそれでも気にしていたが、決してそれによって動かされることもなかった。彼の経験は、とにもかくにも、そういうような道をたどって累積せられたのである。
 泡鳴が衝動的行動を取るとき、もとよりそこに一分の余裕を持っていたはずはない。ただ彼の作家かたぎが、彼をして後からその行動を豊富な経験として客観せしめた。そうでなければ、彼の生涯は悲壮な色を極度に帯びていたに違いない。しかるに彼は存外楽観的であった。それが慣習となって、その効果が一面|抜目《ぬけめ》がなく如才のない性格を彼に附与した。それがために時としては狡猾《こうかつ》とさえ思われた。
 泡鳴はいつも物質に惑溺《わくでき》していて、その惑溺のうちに恋愛と神性とを求めていた。彼は暫くも傍観者として立ってはいられなかった。人生に対する観察はいよいよ手馴らされ、皮肉になり、それと共に彼の好奇心は弥《いや》が上にも昂進して行った。
 鶴見はこの頃になって、泡鳴をバルザックに比較して考えて見るようになった。両者の間に相似点がある。押詰めて検討して行けばおもしろかろうなどと思っている。
 泡鳴の晩年にはそういう状態が既に熟していたが、鶴見を銭湯に促がした時分の泡鳴にも早くそれらの傾向は現われていたのである。好奇の心を養うためには犠牲を要する。その犠牲に手を伸《のば》す貪婪《どんらん》さを彼ぐらい露骨に示したものも少かろう。鶴見が銭湯に誘《さそ》われたのを犠牲と呼ぶには当らないが、どういうものか、そういうような気持がふと心のなかを掠《かす》めて行った。僻目《ひがめ》であろうかと恐れたが、それかといって、その疑を払拭する反証をも捉え得なかった。
 鶴見は気張って、痩っぽちの裸体を風呂屋の洗い場で彼に見せてやった。

 銭湯からの帰りしなに、泡鳴は満足げにぶらぶらと歩いていたが、遽《にわ》かに気がついたと見えて、煙草を買いに、とある雑貨店に立寄った。その店先に、「琉球泡盛あり」と埒《らち》もなく書いた貼紙《はりがみ》が出ている。コップ飲をさせるというのである。鶴見はそれが場所にふさわしくないので多少不安におもっている。
 泡鳴はその貼紙に目をつけて、咄嗟《とっさ》にこういった。
「おい、君。一杯やってゆこう。」
「それも好かろう。」鶴見はそういって彼の要求に応ずるより外はなかった。そしておれはまた掬《すく》われたなと感じた。ちょうど手網にかかった雑魚《ざこ》のようにも思われたからである。
 こういうような敏捷《びんしょう》な行動で、泡鳴は人生の機微を捕える。工夫といって別段の方法があったようには考えられない。
 湯上りの泡盛は確《たしか》に旨かった。
 木曾旅行の途次、贄川《にえかわ》の宿で乗合馬車が暫くのあいだ停《とま》っていた時のことである。折から鉄道工事の最中なので、大勢集っていた工夫たちにまじって、名産の「ななわらい」を一杯試みた。今湯上りの泡盛が、鶴見にそれ以来の快味を覚えさせたのである。
 長話はここで尽きた。黙って聞いていたはずの景彦はいつしか姿を消している。鶴見にはそれを少しでも気にかける様子はなかった。

 長話の後で鶴見はまた別な事を勝手に想い浮べている。
 戦災後十日ばかりもたってからのことであったろう。鶴見は所用があって、焼け跡の静岡市に出掛けた。町内で班長を勤めていた人に逢って、始末をつけておくべき要件を持っていたが、その人の立退先《たちのきさき》が分らなかった。それが少し見当がついたので、そのあたりを尋ねて見た。いくら捜しても尋ねあたらない。鶴見は諦めて、疲れ切った体を持て余すようにして足を引きずっていた。
 その辺は安東といって住宅地である。大部分は焼け残っている。浅間社《せんげんしゃ》の花崗岩の大鳥居《おおとりい》の立っている長谷通《はせどおり》も、安東寄りの片側はおおむね無事である。その通をがっかりして戻って来ると、平常に変らず店を開けている古本屋が先ず目についた。
 小さな店のなかは立読みなどをしている青年たちで込み合っている。焼けあとの形《かた》づけさえ覚束《おぼつか》ない状況のさなかで、一方ではこのありさまである。その光景にひどく驚いたが、店の主人は顔馴染《かおなじみ》でもあるし、鶴見にしてからがその店の前は素通りにはできなかった。恐らく市内でここがただ一軒残った古本屋であるかも知れない。そう思って見るとなお更のことである。
 鶴見は店にはいって、いつもするように書棚の前に立って、ぎっしり詰めてある本を仔細に調べて行こうとしたが、それを為すだけの根気も既に失せていた。目がちらちらする。精力の尽きているのを知って、鶴見は我ながら情なくなる。それでも多数の書のなかから三冊を選んで購って来た。
 その三冊というのは、真淵《まぶち》の評伝と、篤胤《あつたね》の家庭や生活記録を主として取扱ったものと、ロオデンバッハの『死都ブルウジュ』の訳本とである。
 鶴見はやっとの思いで、転出先の農家に帰り著いた。そして手に入れた三冊の本を机の上にならべて見た。これが果して自分で選び出して来たものか、どうしてもそうとは思われない。まるでちぐはぐで三題話の種にもならないじゃないか。鶴見は例の癖で自嘲の念に駆られながら苦笑した。
 とにもかくにも、鶴見はこの三冊の外には読み物を持たない。それで先ず真淵から手をつけた。
 真淵に「うま酒の歌」というのがある。
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うまらにをやらふ(喫)るがねや、一つき二つき、ゑらゑらにたなぞこ(掌底)うちあぐるがねや、三つき四つき、言直し心直しもよ、五つき六つき、天足し国足すもよ、七つき八つき。
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 評伝はこれを引用して置きながら、その歌には余り価値を認めていない。鶴見は一読して感歎した。それから毎日のように口誦《くちずさ》んでは、そのあとで沈思しているのである。
 鶴見にはこの歌につき別に思い出があって、それが絡《から》みついて、その印象をますます深くしている。それというのは、先年静岡市の図書館で名家墨蹟記念展覧会が開催されたことがある。その会場で真淵の横幅物を見た。浜松の某家からの出品である。鶴見はその幅の中で、一度この「うま酒の歌」を知っていたからである。知ってはいたが最早《もはや》十年も昔のことである。忘れていたといっても好いぐらいである。よく練れた温雅な薄墨の筆蹟で、いかにも調子は高いが、どこまでも静かにおち著《つ》いていて、そこにおのずから気品が備っていたように覚えている。
 この「うま酒の歌」が重ね重ねの機縁となって鶴見を刺戟した。刺戟されたのは久しく眠っていた製作欲である。鶴見は物に憑《つ》かれでもしたようになって、しきりにそれを不思議がっている。
 しかしまた鶴見はそれを恐れもした。こんな時に景彦がやってきて反撃するかも知れぬということを恐れたのである。不思議不思議と言《い》い募《つの》ってみても、そのなかからは何も出て来ないのだ。実行だよ。不思議というのは実行の成績に待つべきものだ。こういっておれを言下に痛罵するかも知れない。

 杜甫《とほ》に「飲中八仙歌」がある。気象が盛んで華やいでいる。強《し》いて較《くら》べるのではないが、真淵の「うま酒の歌」においても同じことがいえる。そこで鶴見はこう考えている。詩には何を措《お》いても気象が立っていなければならない。丈《たけ》高いすがたである。どんなに柔艶な言葉を弄しても、底の底から揺《ゆる》ぎのないいきざしが貫き通っていなくてはならない。それを気象が立つというのである。おのずから生の華やぎが作品の表に見えて来ねばならない。それがないのは畢竟《ひっきょう》飢えた詩である。そんな考が不意に射出《いだ》した征矢《そや》のように、鶴見の頭脳のなかを一瞬の間に飛び過ぎた。
 戦災にかかってからは、いや更に荒されたまま、痺《し》びらされたままになっていた頭脳が、ここに漸《ようや》く本然の調子を取り戻す機会を得たことになる。この回復の徴を齎《もたら》した「うま酒」はあたかも霊薬の如きものであった。霊薬の効験は著しかったといって好い。鶴見はそれをよろこんで、将来に何物をか期待する予感を抱くようになった。
 今直ぐに手を伸せば把握される何物かがあるようにも思われる。さてそれがどこに潜《ひそ》んでいるかは分らない。鶴見は依然として坐ったまま黙りつづけている。そうしている間に、この日もまたいつしか暮れて、電燈が点《つ》いた。

 鶴見たちが世話になっている家は、農家の常とて、表口から裏口にかけて、突き抜けていて、その空所が広い土間である。この家では、その土間の中ほどより裏口に近いところに大きな食卓を据え、その周囲に腰掛が置いてある。食事のおりにはめいめいが極《き》まった席に順序に著く。電燈を点けることが、おおかた夕食開始の刻限になっている。
 今晩も電燈が点いたので、鶴見は出居《でい》から土間《どま》に降りて、定めの椅子を引き出して腰をおろす。鶴見の席は卓の幅の狭い側面を一人で占めることになっているのである。家族の人々は老人夫婦をはじめ出揃っている。
 この家の古い建築の仕方から見れば、いま食卓の据えてある土間の奥に竈《かまど》が築《きず》かれていて、朝夕に赤い火が燃えていたものと推測される。厨《くりや》が建増《たてまし》になってから、三つ続きの大きな竈もその方へ移されて、別に改良した煉瓦の竈も添わっている。内井戸も出来て、流し場も取りつけられ、すべては便利になっている。
 それで電燈は、出居と囲炉裏《いろり》の間《ま》との仕切の鴨居《かもい》に釘《くぎ》を打ちつけて、その釘にコオドを引き掛けてあるのを、夕食のおりだけはずして来て、食卓を側面から照らすように仕向けるのである。囲炉裏の間ともとは台所であったらしい部屋とのあいだには大きな柱が立っていて、大黒柱《だいこくばしら》と向い合いになっている。その柱をこの辺で、うし柱といっている。電燈はそのうし柱のすぐ側《そば》に掛けられる。丁度鶴見の席の背後になる。そんなわけで、そこに火の点く時が食事をはじめる合図になるのである。
 この家の主人は、おかたが抱えて来て卓上に置いた大鉢に盛ったものを、二つずつ分けてわれわれの前にならべてある皿の上にも配って廻る。紡錘形のにこやかな物である。蒸し芋である。
 主人は鶴見にこっそりいった。「きょうは一月遅れの七夕《たなばた》ですから、初穂《はつほ》として早出来の甘藷を掘って見ました。」
 こういって、主人は自席へ戻って行った。
 ほほえましい空気が一座の人々の心を和《なご》めずにはおかない。誰の顔を見ても微笑の影が漂っている。

 鶴見ははからずもこの事に感興を得て、数日の後に一篇の古調を賦《ふ》した。全くの異例である。病人に食慾が出てきたようなものだといえばそれまでであるが、鶴見はそれを今以て不思議がっている。

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国足らす畑つ益芋(ますうも)、
をしげなく早めに掘りて、
初穂をば享《う》けたまへと、
たなばたのまつりに供へ、
家刀自《いへとじ》はそがあまり
鉢に盛り、うからにぎはす。
主人(あるじ)は皿に取りわけ、
われらにもいざとすすめぬ。
土をいでて時もあらせず、
このうもの蒸しのうましきや。
まろらに、にこげに、
食うべぬさきよりぞ
おのづからほほゑまる。

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