晴らそうとして、変遷推移する世代から、犠牲の座に据えられた第一人者を選んで、いつでも憑《よ》りつき乗りうつる。迢空さんはそういっているのである。
 犠牲者はその時から献身者の地位に立たされねばならなかった。繭《まゆ》に籠っていた蛹《さなぎ》が蛾《が》と化《かわ》り、不随意に見えた世界を破って、随意自在の世界に出現する。考えてみればこの急激な変貌の畏《おそろ》しさがよく分る。受身であった過去は既に破り棄てられた。献身者は全く新たな目標を向うに見つけて未知の途《と》に上《のぼ》る。身心を挙げてすべてに当るより外はない。肉身といえばか弱い。心といっても掌《たなごころ》に握り得るものでもない。ただあるものは渇仰《かつごう》である。光明に眩《くら》まされた憧憬である。
 現実に即して言えば、それは旧制度が停滞していたそのなかで諦めようにも諦められずに知性の発揚をいちはやく感じていたものの目覚めである。
 家庭も社会もただ一色の淀《よど》みの底に沈んでいる。そういう環境の中で人々は相互に不安を抱いて語り合っていた。そして灰色に見える塗籠《ぬりご》の奥では、因襲は伝統の衣を纏《まと》って、ひそひそと人の世の秩序を説いた。新智識を制圧して浅はかな恩恵を売ろうとしていたのである。殆ど自意識を持たせられなかった女人において、その制圧の状態は殊に甚《はなはだ》しかった。
 その女人のなかから諦めようにも諦められぬ心のすがたが象徴の形を取って現れる時が来た。その女人がその時代の第一人者である。ここにいう犠牲者である。

 かつて人を疑うことを知らなかった姫が今その選に入るのである。
 因習から人を救解するには、その人自らが先だって純一無雑な信念を持たねばならない。信の外に何があろう。信は智慧を孕《はら》んで、犠牲者の悲痛を反逆者の魂の執著の一念のうちに示して見せると共に、その悲痛の自覚を直《ただち》に歓喜の生に代えるのである。姫は夜の闇にもほのかに映る俤《おもかげ》をたどって、疼《うず》くような体をひたむきに抛《な》げ出《だ》す。行手《ゆくて》に認められるのは光明であり、理想である。
 悌は手招く。それは瞬間を永遠にしつつ、しかも遂に到達されぬ目標である。永遠というものはそういう考察を要求するものとして、その実相をあるがままに捉えねばならない。帰一と同時に開展する。そこに事象の具現性が見られる。巻くことが展《ひろ》げることと同義になる。巻くというのも展げるというのも畢竟《ひっきょう》形式である。形式はその内容をなす生命の流動によって活《い》かされるのである。
 生命は渦動する。新旧交替の時期において、人文はその渦動に催されて一歩進める。ただの一歩とは言え、それは創造世界への開展のきざしであり、はやくも革新を約束された社会にあっては重圧の土を破る。そして個性の穎割《えいかつ》が認められるようになり、外来文化の刺戟ともろもろの発見とを緒として次第に学問芸術の華《はな》が咲き匂う。

 鶴見はここまで一気に考えつづけて来て、ほっとして、溜息をついた。こんな風に特異な考察をめぐらしたことはこれまでついぞなかった。それだけに、重荷を背負って遠い途《みち》にかしまだちするようにも感ぜられる。またそれだけの余力がこの老年の身にもなお残っていたのかということが訝《いぶ》かしくも感ぜられる。いずれにしてもそう感ずることが、即ち若返りの徴でなくてはならない。鶴見は強《し》いてそう思ってみた。それがまた彼を力づけた。
 機縁はすでに釈迢空《しゃくちょうくう》さんの『死者の書』によって作られた。鶴見のためには、この書がたまさかに変若水《おちみず》の役目を果すことになったのである。
 しかし若返るといっても、ただそれだけでは徒言《いたずらごと》である。はかない夢に過ぎない。鶴見は更に省察を重ねねばならなかった。そしてこう思った。これもまた貌《かたち》を変えた執著であろうと。彼は執著をまた執著するのである。おれには最早《もはや》過去があるばかりだ。背後が頻《しき》りに顧みられる。背後には何があるのであろう。おれは絶え絶えに声に立つ痛恨をそこに認めるばかりである。目も眩《くら》むような光明劇は前方で演ぜられる。おれには前途はない。将来に希望を繋ぐには朽ちかけて来た命の綱が今にも切れそうである。おれのからだのどこを捜して見ても何ほどの物も残っているはずがない。若返るためには贖物《あがないもの》が入《い》る。贖いもせずにいては所詮《しょせん》助かる見込はあるまい。天寿国は夢にも見られないのである。
 鶴見はここで彼をたしなめる笞《むち》の音をはっきり聞いた。なるほどそうである。贖物を供《そな》えずにいて、それなりに若返るすべはない。鶴見は思い詰めた一心から、その業因《ごういん》を贖物に供えようと考えている。これは已《や》むに已まれぬ執著に外ならない。執著の業には因がある。その業因は彼の未生以前《みしょういぜん》に遡《さかのぼ》る。目を遣《や》れば遣るほど計り知れぬ劫初《ごうしょ》にきざしているといってもなお及ばない。生は限りなく連続する。鶴見は、今そこに輪廻《りんね》を観じているのである。
 空無に見えるのは、それが一切であるからである。鶴見は今空無そのものを若返りの贖物にささげようとする。よしやそれが贖物の千位の一位にも足らぬものであろうとも、美衣も珍饌《ちんせん》も重宝も用をなさぬ永遠の若返りのために、彼はそうすることを欲しているのである。犠牲となる空無の羊は屠《ほふ》られもしよう。屠られはしても、流されたその血しおにはやがて流転する生の因子が含まれていよう。
 鶴見はまた溜息をついた。そして遠い所を見渡すようにしていたが、見当さえも定めかねた目に先《ま》ず映じたものは、時空のけじめを超えて、涯《はて》しもなく蠢《うごめ》く世界の獣の如き幻影である。それにもかかわらず彼の執著はなおもこの茫漠たる世界の雲霧を披《ひら》いて、執著を執著する一心の姿を辿って見ようとする。

 輪廻は確に贖いである。苦行である。それ故にその一々を贖いの過程と見て行けば、その贖いのための顕証として、歓喜の相をそこに多少とも示さねばならない。鶴見はそれを内心に予感し得るものであろうと考えている。その歓喜の予感のなかで、永遠の若返りの内容が連続錯綜して開展するのである。その姿をおぼろげにながめやりながら、彼はその一々に頷《うなず》いている。

 因循して旧を守っていて好いものか、それとも破壊してまでも急進すべきものであろうか。常識では判断は出来ない。ましてやその中を得るということはむずかしい。そういう状態に置かれた社会が、沈黙の言葉を以て、献身者を求めるのである。誰しも時としては何ものかを胸に蔵していて、考えさせられもするように感じながら、口に出してあらわには唱《とな》えられぬ想念を持っている。未だ表現を知らぬ思想である。どこに向って鬱した気を晴らして好いのか。人々はその隙間《すきま》を模索して、そのために悶え苦しんでいる。そういう時期がある。
 動揺期にある社会は守旧破壊の双方の主張の風を受けてますます波瀾《はらん》をあげているが、多数の人々はその双方の思想を識別して向背を決するだけの文化を有していない。少数の当事者は私利我慾を恣《ほしいまま》にしようとして盲動している。あたかも好し、この時に当って、献身者は時代の両極を成す思想を超克して身を起す。そしてその事を無意識の裡《うち》に成就する。
 献身は非常の事態である。それを為すには飛躍を要する。超ゆべきものを超えるには身を捨てて掛らねばならない。やがて塞《ふさ》がれた生命の流が疎通する。かくて献身者は生命の流のしかもその中流に舟を浮べて、舟の漂い行くに任せて、ひとりほほえんでいる。
 献身は非常の事態である。反逆者の魂にこもる執著の憑《つ》いてさせる業としか思われない。しかもその成し遂げた蹟《あと》を見るに、そこには人文の中心に向って奏《かな》でられる微妙な諧和が絶えず鳴り響いている。朽ちせぬ瓊琴《ぬごと》の調《しらべ》である。これこそ真にその中を得たるものといわねばなるまい。人間わざとは思われないからである。不思議といえば不思議である。
 献身者の使命はここで終る。それと共に献身者は身を隠してしまう。人は想像をめぐらしてその隠れの里を執著の窟《いわや》に求めても好い。その執著の窟戸《いわやど》を折々開けて、新機運に促されつつ進展して行く人の世の風光を心ゆくばかり打眺めて佇《たたず》んでいる姿がある。暁《あかつき》の夢にその面影を見かけたといったとしても、誰がそれを過度の空想を逞《たくまし》うしたものといってむげに非難し得るであろう。
 生命は滞《とどこお》るところなく流動する。創造の華が枯木にも咲くのである。藤原南家の郎女《いらつめ》が藕糸《はすいと》を績《つむ》いで織った曼陀羅《まんだら》から光明が泉のように涌《わ》きあがると見られる暁が来る。
 釈迢空さんは『死者の書』の結尾にこういっている。「姫の俤《おもかげ》びとに貸すための衣に描いた絵様《えよう》は、そのまま曼陀羅の相《すがた》を具えていたにしても、姫はその中に、唯一人の色身《しきしん》の幻を描いたに過ぎなかった。しかし残された刀自《とじ》、若人たちのうち瞻《まも》る画面には、見る見る数千の地涌《じゆ》の菩薩の姿が、浮き出てきた。それは幾人の人々が、同時に見た、白日夢《はくじつむ》のたぐいかも知れぬ。」

 迢空さんの美しい文章はいつまでもその書を読むものを手招きしている。鶴見もまた迢空さんに誘われて、何かもう少しいってみたいと思う言葉が醸成され、涌《わ》き出《だ》して来るのを内心に感じている。
 鶴見はここで、創造ということについていってみたいのである。輪廻と創造との関係と言い換えても好い。
 輪廻が贖《あがな》いであり、そこに歓喜が伴うということは、鶴見が前にいっていた。彼はそれを基礎として更に考えを進めてみるのである。
 輪廻は現実の事象に執著するということから始まる。鳥獣虫魚草木に至るまでの万物は、感覚を媒介として、個想を養う輪廻世界の苦行の姿として知覚される。そしてその苦行に宿る歓喜を求めて、一度求め得たるものを放とうともせぬ貪欲心が生ずる。それが執著である。鳥獣|乃至《ないし》草木においても、知覚の厚薄はあろうが何らかのかたちで人間と同じく、その苦行と歓喜とを感じているのではなかろうか。鶴見はそこまで推定して見ねば気が済まぬように思う。少くとも万有が錯綜《さくそう》した知覚関係に置かれているものと信じさせられている。感応が行われねば世界は死滅である。
 刹那《せつな》は永劫《えいごう》に廻転する。なぜかなれば普遍の生命は流動しているからである。もろもろの感覚によって起される執著が因《もと》となり種子《たね》となって幻想の渾沌《こんとん》を構成する。渾沌は渦動する。この渾沌たる幻想は漸《ようや》くにして流動する生命に孕《はら》まれる白象の夢となるのである。新たなる言葉が陣痛する。托胎《たくたい》の月満ちて、唯我独尊《ゆいがどくそん》を叫ぶ産声《うぶごえ》があがる。これこそ人文世界の薄伽梵《ばかぼん》、仏世尊《ぶつせそん》の誕生である。かくして耀《かがや》かしい学芸の創造と興隆が現世に約束される。
 観るが好い。誕生仏は裸身であってまた金色の相を具え、現実であってしかも理想の俤を浮べる。

 創造のことを思量しつつも鶴見はいつしか夢に夢を見ていたのである。夢の醒《さ》め際《ぎわ》に少し身を顫《ふる》わしていたが、暫くしてから気が附いたらしく、口中で低声に何か唱《とな》え言《ごと》をしているように見えた。それは「南無」というように聞える。鶴見は両三遍《りょうさんべん》唱え言を繰り返してから、遽《にわ》かに勢づいていった。「天工を奪うとはこの事だ」と。
 鶴見の輪廻観は要するにこの流転世界に対応する心像を因子として個想の発揚が欲求される創造観である。刹那に永遠を照見する幻想
前へ 次へ
全24ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
蒲原 有明 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング