、未知の境界《きょうがい》を少しずつ知る機縁となった。
鶴見はその塩湯に寝どまりすることになって、万事は西岡の若い未亡人がよいように取運んでくれた。朝早くまだ誰も入浴に来ないうちを見計らって、風呂の蓋《ふた》を開けてもらい、湯気の盛んに立つ綺麗な湯につかるのである。鶴見ははからずも一番風呂の贅沢を独占する。その上にも一しょに入る未亡人からは、流し場で、一面に瘡《かさ》になった体をたでてもらえる。そのおりのことを、彼はいつまでも忘れないでいる。かほどまでに親身になってかばわれたのは、彼にはかつてなかったためしである。
父とは同国の出身で、夙《はや》くから病気療養に対するその効用を認めて海水温浴を主唱し、少しは世に知られていた医家があった。西岡である。西岡は不幸にして志も達せずに歿したが生前の主張が一つの果実を結んで、それが未亡人の手に遺《のこ》されていた。芝浦の塩湯と呼ばれて、その後も幾多の変遷を経て、ずっとその遺業はつづけられた、塩湯の方はおいおい附帯のように成っていったが、芝浦館といえば東京では知らぬ人はまずなかったといって好かろう。
西岡未亡人の家にはそんなわけで、西岡医院開設当時に贈られた蒼海翁《そうかいおう》のあの雄勁《ゆうけい》な筆力を見せた大字の扁額《へんがく》を持ち伝えていた。鶴見が幼い観察から、急傾斜になっている海面にひっくり返りもせずに小蒸汽船の動いてゆくのを見たというのは、その塩湯でのことであった。木挽町の塩湯はいわばその分身のようなものである。越後長岡の出で、どういう因縁のあってのことか、左団次|贔屓《びいき》の婆さんが頭《かしら》だって切り廻していた。場所柄でもあり、また婆さんの趣味も加わって、築地辺に住んでいる名うての俳優の家族などにもその宣伝がきいたと見えて、その連中が常連として入浴に出掛けて来る。そう聞かされて見れば、子供心にもなるほどとうなずかれる。流し場の隅に積み重ねてある留桶《とめおけ》のなかで三升《みます》の紋《もん》などが光っていたからである。
西岡の若い未亡人はその塩湯の奥座敷を自分の部屋として占めていた。縁側《えんがわ》寄りの中硝子《なかガラス》の障子《しょうじ》の前に文机《ふづくえ》がかたの如く据えてある。派手な卓布がかかっている。その一事のみがこの部屋の主人の若い女性であるのを思わせている。筆立には二、三本毛筆が挿してある外にペン軸が交《まじ》って見える。その横にインキ壺が備えつけてある。朝日が射し込むとそのペン先が忽《たちま》ち金色に輝き出す。インキ壺の切子《きりこ》の角が閃光を放つ。机上の左の方には二、三冊の洋書が無造作《むぞうさ》に置いてある。簡素で、たったそれだけの道具立てであるが、鶴見は朝々それらを目にするたびに、そこにどうやら身に迫ってくる時代の新鮮味をおぼえるのである。
この部屋の主人公である若い未亡人はカトリックの尼さんたちと懇意にしていたが、そのころ発展の気運に向っていた女子教養のためのミッションスクウルが、麹町|四《よ》ツ谷《や》見附《みつけ》内に開設せられ、西岡未亡人がその学校の校長に推されているというようなことなども段々知らされた。この未亡人が鶴見の結婚の仲介もし、その前年の日露戦役の終った年の暮には、あわただしく病に倒れた鶴見の老父の葬儀にも彼は格別の世話を受けた。このたびの戦時中、八十幾歳で亡くなったが、鶴見は父の死後少しも変らずに長く附き合っていたのはこの夫人だけである。
鶴見はこんなことを思っている。――西岡夫人は実際特異の存在であった。時代を識《し》り時代に順応して、八十幾歳の長い生涯に複雑な経歴を閲《けみ》しつつ、しかも平凡に、そのために更に自由に身を処して、未亡人として思うままの享楽も為尽《しつく》して、晩年は二、三の知名の士の夫人と同好の仲間を作って、観劇に老を忘れていた。世間のことなら何もかも知りぬいていながら、飽きて退屈するような素振《そぶり》は少しも表に現わさない。それだけに老いてもくずおれるということがなかった。そしていつも優雅な言葉つき、そうかと思えば随分と放胆な調子も厭《いと》わぬ言葉のあやと表情|饒《ゆた》かな微妙な振舞とに溢れるばかりの才気を見せる。西岡未亡人にはそういうような、他に優れた特質の美が目立っていた。引きつづいてカトリックに信仰を持っていたとは言えなかったが、その薫染がどこやらに残っていて、未亡人に接するたびにその匂いをかぐように感ぜられた。とにもかくにも未亡人はこの宗教と死ぬまでも縁を切らないでいたのである。
西岡夫人はすでに他界したが、鶴見には夫人は第三者としてではなくて、もっと身近にいつまでもいてくれる。鶴見はふと気がついてそんな風な考にはまり込む時がある。夫人の生涯を鶴見は自個の生涯の上にも見たのである。
「おれの生涯は敏慧で親切で寛容な夫人の優雅な言葉を縫糸《ぬいいと》にしてはじめて仕立てられた一領の衣である。おれにはそう思われて仕方がない。清新と自主と自由とが縫い目縫い目に現われている。野性に圧された重たい麻衣の上に少しばかりの柔靭《じゅうじん》さが加わったとすれば、あの不思議な縫糸と自然な運針とを仔細《しさい》にあらためて見ねばならない。そこにはあの奥深い情味のこもった宗教の香味がそこはかとなく匂っているのである。
冥々《めいめい》の化ということがある。夫人の長い生涯の間の感化がそれである。いつとは知れず、その感化がおれの体に浸み込んだのだ。そしてそれが冥々の裡《うち》におれの思想を支配していたのでもあったかのように反省される。この夫人ならおれの生母のいきさつをも熟知していたかも知れない。おれはおりおり聞いて見ようとしたが、口には出せなかった。おれにはつまらぬ片意地がある。それでいつも損ばかりしている。夫人は不幸なおれの境遇をよく知っていたので、余計に孤児としてのおれを憐んでいたのかも知れない。」鶴見はそう思って、この夫人に特に感謝の念を致しているのである。
鶴見は明治二十年に府立の中学に入校した。中学の校舎は木挽町《こびきちょう》の歌舞伎座の前を通り過ぎて橋を渡ると直ぐ右角の地所を占めていた。かれが出養生をしていた塩湯とは堀割を隔てて筋向いになっている。
鶴見はもう幼年期を終って立派に少年時代に入る。独楽《こま》や凧《たこ》や竹馬《たけうま》や根《ね》っ木《き》やらは棄てられねばならない。鶴見はそのなかでも独楽は得意で、近所の町屋の子や貧民の子らと共に天下取りをやった。その外にめんこもやった。とんぼも追いかけ廻した。殊にとんぼには興味をもっていた。どうしてそんなに沢山いたかと思われるほど、とんぼが飛んでいた。種類も多かった。しおからやむぎわらは問題にならない。虎やんまもいたし、車やんまもいた。そしてそれを珍重がっていた。虎やんまは往来を低く飛んできて、たちまちのうちにもち竿《ざお》の陣を突破してしまう。虎やんまの出るのは主《おも》に日盛りの時分である。なかなか手におえぬところに次の機会が期待される。車やんまというのは虎やんまに似ていたが尾の先に車の半輪のような格好をした鰭《ひれ》がついている。特性としては、物干《ものほし》の柱に立てた丸太のてっぺんなどに羽を休めることである。さてその日も暮れかかってくると、普通のやんまが夥《おびただ》しく集まってくる。それが町の四辻《よつつじ》に渦を巻いて飛び交わしている。そのやんまの両性をおんちょ・めんちょといって呼び別けていた。交尾のために集まったやんまに違いないのである。
子供たちはそこを目がけて竿でめった打ちにするものもあれば、趣向を変えて、とんぼ釣をすることもある。とんぼ釣といっても、これは計略で、あながちに釣り落すのである。計略とはいえ至極簡単なもので、女の髪の毛一筋あれば事足りるのである。その髪の毛の両端に小石を反故紙《ほごがみ》にくるんで結びつける。仕掛けはそれだけで済む。それを手早く拵《こしら》えて、持っていって、あてもなくやんまのかがいの中に放り上げる。引っかかったやんまこそ災難である。やんまは首筋を髪の毛にはさまれて、その両端につけた小石の重みに圧されて落ちてくる。それによっても推量されるようにやんまは一箇所に押合っている。二、三百は飛んでいたろうかと思う。取れた獲物は籠に入れたり、手の指の股に挿んだりする。
およそとんぼのことといえば夢中になっていたのである。取ったとんぼは鈴虫のように好い音を聞かせるでもない。ただそれだけのなぐさみに過ぎなかったが、それでも籠に入れ持って歩いた。子供仲間でとんぼ草と呼んでいたものが、乾いた溝の縁なんどに生えている。紫褐色の肉の厚い葉を平たく伸している雑草である。※[#「くさかんむり/見」、第3水準1−90−89]《ひゆ》の種類でもあろうか。その草を摘《つ》んで籠の中のとんぼにやったりする。果してとんぼがその草の葉を食べるものか、それはどうでも好かった。ただそういうことをするのが、何というわけもなしに、面白かったのである。
しかるに昨年の秋になって、転出先から疲れ切った翼を休めにもとの古巣に戻って来て、さて今年の夏になって見ると、裏庭を畑におこしたそのあとの土に、この久しく忘れていたとんぼ草が一面にはびこり出したのを発見した。それを見ると、幼時の日常が思い出されるといって、鶴見はつくづくと懐かしがっているのである。
幼年期のこうした回想もいよいよとんぼ釣で終末を告げる。鶴見は中学に入って急に大人びて来たからである。世間もそれと同時にめまぐるしく変っていった。二十二年、二十三年には憲法が発布され、議会が開設される。万事が改まって新しく明るくはなったが、また騒がしくもなった。その騒しさが少年の心を弥《いや》が上にも刺戟した。まだ社会の裏面を渾沌《こんとん》として動きつつあった思想が、時としては激情の形で迸《ほとばし》り出《で》ようとすることがある。
憲法発布の日には、時の文相|森有礼《もりありのり》が暴漢のために刺殺された。事実の痛ましさはめでたい記念日の賑《にぎわ》いに浮き立っていた誰しもの胸を打った。しかしその惨事が国運にどれだけの意義を持っていたかは、当時の少年などに分ろうはずもなかった。ひとり少年とはいわず、然るべき識者にしても恐らくそうであったと思われる。一口にいえば文明開化と国粋思想の相剋《そうこく》である。それが将来に如何なる展開を示すものか、その意義を正しく認識し批判し得るものは恐らく稀であったろうと思う。世間では大部分雷同して森文相の自由主義を攻撃していた。それでも外国文化の移入は国粋思想の抵抗によってそれほどの影響も受けずに、むしろ両々《りょうりょう》相待って進んで行った。国学の再興にしても、その根蔕《こんたい》には文化に対する新しい見解が含まれていた。
時代思潮は暗黙の裡《うち》に進んでゆく。無理をしてまで押通そうとするのではない。いわば社会を動かす全生命の力である。物をも言わずに絶えず物を言っている。そういうところにその強みがある。創造の能力がそこに見られるからである。鶴見の少年期はそんな時代の波をくぐって来た。その一事を生涯のよろこびとすることを、彼は私《ひそ》かに誇りとしている。そのよろこびの中でかれはこれまで幾度か若返って来たのである。今でもそうである。「おれにはそうとしか思われぬ」といって、かれはその時代に対する讃美を惜しんでいない。
とんぼ釣をやめて急に大人びたかれは、とんぼの代りにこれから先釣り出して見たいと思うものを、空想のかたちにおいてでも持っていなければならぬはずであった。かれにはそういう考がなかった。この時になってもまだ自己について何らの思量をも加えずにうっかりとしていた。人生を無意識に遊戯の場地と見なす癖は改まっていない。家庭でこそかれを強圧するものがあり、畏縮《いしゅく》させるものがあったとはいえ、一たび外に出れば、そこには自由な小天地がかれをここちよく迎えてくれた。とんぼの代りに自然を観察することが、かれ
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