もとのままの方が落ちつきがあって好ましかった。そのくせ今度は家の隅《すみ》に茶室めいたものが造られて、炉《ろ》が切ってあった。
 父はその茶室に閉じ籠って、七十歳を超えてから死ぬるまでの幾年かをすわり続けた。父の茶道は素《もと》より然《しか》るべき藪《やぶ》の内《うち》の宗匠に就《つい》て仕上げをしていたのであるが、しかも父の強い個性は徒《いたず》らな風流を欲しなかった。朝茶の炉手前は何かしら苦業《くぎょう》を修する発端で、その日も終日不可解の茶の渋味を呪法《じゅほう》に則《のっと》るごとき泡立てに和《やわ》らげて、静座しつつ、楽《らく》の茶碗を取りあげて、ひとりで苦しんで喫してあるべき運命の前提のようにも思われた。父は閑日月《かんじつげつ》の詮議《せんぎ》よりもむしろその方をよろこんでいたのだろう。そこに父の平生抑えていて弛《ゆる》めぬ克己心《こっきしん》の発露がある。こうして父は苦行の道を択《えら》んで一生を過したといって好い。
 こんな事がある。会席の真似事をして銅鑼《どら》を打つ。会席では用意が整えられたしらせに銅鑼を打って、路次の待合客に入室をうながす合図とする。それを打つには秘訣がある。呼吸がある。それで傍《かたわら》から父の打つのを聞いていると、その心意気があたかも敵陣へ突き進む時の決意を示すように響いて来るのである。家族のものがそれを「まるで忠臣蔵の討入《うちいり》ですね」といって笑った。
 父の茶道はまずそんな風格のものであった。

 新築と共に国から一人の叔母が家事の監督がてらに上って来た。その叔母の顔には特徴があった。長面で頬がやつれていて眉間《みけん》の中央に目立って大きい黒子《ほくろ》がある。それが神々しく感ぜられる。唇にはいつも寂しい微笑を含ませ、眼差《まなざ》しにはいつも異様な閃《ひら》めきを見せている。いつ見てもそうときまっていて、その顔つきには表情の変化が現われて来ない。後から聞けば、その叔母はどうしたわけか結婚して間もなく、裏の溝川《みぞがわ》に身を投げた。気がふれたのだという。そういう話を聞けば顔だちの特徴にはなるほどと思われるふしがある。鶴見は今は未亡人であるこの叔母を尊敬もし、また親しんでもいた。特色の出ている人を好む彼の性向は早くこのころから萌《きざ》していたものと思われる。
 新築後は以前から長くいたおだいという乳母《うば》もいなくなった。二人までいた同居の人たちも立退《たちの》いた。別れた母の代りには姉と叔母とが立働いている。これも家庭の改革であった。

 新築祝いがあった。
 先ず客を招く準備として、襖絵《ふすまえ》の揮毫《きごう》に大場学僊《おおばがくせん》を煩《わずら》わした。学僊は当時の老大家である。毎朝|谷中《やなか》から老体を運んで来て描いてくれた。下座敷《したざしき》の襖六枚には蘆《あし》に雁《がん》を雄勁《ゆうけい》な筆で活写した。雁の姿態は一羽一羽変化の妙を極めているが、放胆な気魄《きはく》を以て、その複雑さを貫通している。二階には大きな波のうねりを見せ、波の上を鶴がのどかに舞っている。襖四枚である。これには淡彩を施してあったが気品があった。小襖には斜に出た菊の枝、通い口の三尺の襖には小松が景色を添えている。二階には宴会の席が設けられてある。十畳の間である。
 もとよりゴブランではないが、大層もない外国輸入の絨毯《じゅうたん》がその十畳の間に敷きつめてあった。田舎出の役人の家としてはちと出来すぎたようである。冷やかな観察者があれば、傍《はた》からそんな皮肉な口をきかぬでもなかったろう。父とすれば考えた上でのことでなく、新築祝の設備としてだけの意味しかなかったにちがいない。そんな新奇な装飾品が当時流行しかけていた。父の負けじ魂の性癖から、一時の物として、つい奮発することになったのだろう。果してこの異国の花卉《かき》を浮織にした絨毯はその後あまり役に立ったとは見えなかった。
 宴会の当日は、明治初年以来父が世話になった上官やら先輩やらの知名の人々を招待した。大抵は同藩の出身者である。酒席のとりなしには新橋の名うての妓を選んで、舞子《まいこ》も来ている。幾つも立てた燭台には真白な舶来の西洋蝋がともされる。その夜美形らが何を歌い何を踊ったか、それを鶴見は記憶していない。ただ綺麗に着飾った舞子に目をつけている。これも鶴見がそれを記憶しているのではなかった。端《はた》のものがそういって、あとから幾度も冷やかすのである。母がいなくなってから、観劇のことが止めになり、何か寂しく物足りなかったところへ、このあでやかな享楽世界を見せられた。子供心にも恍惚《こうこつ》たるものを感じていたにはちがいないからである。

 小学校へは姉と一しょに登校していた。姉は上級に編入されて試験にはいつも優等であった。この姉がいたばかりに、中学に通うようになるまでを、幼いなりに余り歪められもせずに生い立つことが出来た。そう思って、鶴見は往昔《おうせき》を追想してなつかしがっている。その姉ももうとうに亡くなった。

 明治二十年に小学の業を終え、直に府立の中学へ入校したのだが、この年に父は後妻として村山氏を家に納《い》れた。鶴見はここに継母を持つことになったのである。鶴見が※[#「兀のにょうの形+王」、第3水準1−47−62]弱《おうじゃく》な小供で意気地のないことを諷して、後年に至るまで、姉は気性がすぐれていたといってよく誉めていた。それで見ると、姉が国に帰ったのはこの年も晩《おそ》いころであったろうか。
 鶴見は姉と肩をならべながら、『新体詩歌』の中の自由の歌やハムレットの独白なんぞを誦《そらん》じて、街頭を歌って歩いた。この『新体詩歌』は有名な『新体詩抄』の民間版ともいうべきもので、明治十六年にはその第五集を出している。鶴見が今持っているこの小冊子は奥附《おくづけ》を見ると十九年二月の出版となっている。この書は岩野泡鳴から譲り受けたもので、その当時鶴見が手にした袖珍本《しゅうちんぼん》と版式に変りはない。そうしてみれば、彼がその本を読んで感動した年代もほぼ明らかになる。今までに類のない新しい歌を歌って町を歩いたことがそう突飛とも思われなかったというのは時勢であろう。その時勢に応じて、いつとなく少年なるべき彼の心に、やがて意志の自由や個性の発現が望まれるようになっていたと解しても好かろう。新時代は確にこうした道をたどってその波動をひろめつつあったのである。

 生母に別れた後の鶴見は、親身《しんみ》になって世話をやいてくれるものは誰一人なく、一旦棄てられた小供がまた拾われてかつがつ養われていたような気分に纏《まと》われていた。それにもかかわらず、時勢にふさわしい歌を朗かにうたって、鬱屈した精神を素直に伸してゆけたことは全く姉のおかげであった。
 しかるに継母が来て、干渉がはじまった。その干渉の裏には棘《とげ》があった。
 姉は好い時機に国へ立って行った。それと共に姉は好い時分に東京にいたともいえる。
 毛糸の編みものがその頃流行していた。そういう手工《しゅこう》にも姉は器用であった。あの鹿鳴館に貴婦人たちが集って、井上外交の華やかさを、その繊手《せんしゅ》と嬌笑《きょうしょう》とをもって飾った時代である。有名なのは夜会の舞踏であった。昼間はバザアが催された。姉は相当な官吏の女であるというので、勧められて編物も少しは出品したが、要するに売子に雇い上げられたのである。それはそれで好い。鶴見も絹の袴《はかま》に紋附《もんつき》を着て、叔母に連れられて後から出掛けて行った。
 そこでは休憩室で、珈琲《コーヒー》とカステイラを頂戴する。立派な椅子にも腰かけられる。バザアも覗《のぞ》く。姉も鶴見もいわゆる文明開化の誇示をまのあたりに見て、珍らしい経験を得て帰って来たことをおぼえている。忘れえぬ感銘の一つである。

 明治十八年には官制の大変革があった。
 父は許される限りの出世をして、文部書記官に昇進する。それは好いが、新官制によって定めたとおり、父も遽《にわか》に大礼服《たいれいふく》というものを誂《あつら》えて一着に及んだ。父には到底似合もせぬしろものである。御用商人の手で最上等に仕立てられた。肩や胸には金モオルがこてこてと光っている。それに外套《がいとう》の仰山《ぎょうさん》さには一同びっくりした。こんな物を引掛けては小さい人力車《じんりきしゃ》などには乗れそうもない。是非馬車が必要になるといって、皆あきれて、あとでは笑いこけた。それほど偉大な怪物であったのである。父もたった一度身につけたなりで、またと再び大礼服に手を通すことはなかった。
 父は出世するだけ出世して罷《や》めさせられたのである。それを非職と称していた。その後は嘱託という名義で、仕事はこれまでと余り変らずに、主として地方への出張を続けていた。もちろんそれも四、五年の間であった。
 姉は父の全盛を見て国へ帰って行ったのである。暫くの間であったが、風月《ふうげつ》の洋菓子などふんだんにあった。ボンボンといって一粒ごとにいろいろの銘酒を入れた球状の菓子もある。父はそんなものには目もくれず、カステイラなどはいつでも黴《かび》が生える。それでも手をつけさせなかった。家族のものは勿体《もったい》ないといったが、どうにもならない。

 官制の改革は多数の犠牲者を出した。安穏《あんのん》に眠を貪《むさぼ》っていた官吏社会をはじめての恐慌が襲ったのである。維新当座どさくさまぎれに登用された武士階級中の老年者とか無能者とか、たいていそういう人々が淘汰《とうた》された。そういう人々の家族は困り切って、寄るとさわると、窮乏の話をひそひそとしていた。今度の継母は父と同じ藩の然るべき武士の家から出ていたので、そういう窮乏組の女たちがよく尋ねて来て、繰《く》り言《ごと》をいって、為すこともなく一日を暮らして行った。
 継母は継母で一家の経済を極端につましくした。
 これまでぼんやり育って来た鶴見にはまだ買物をする呼吸がわからない。いつでも同じ事であるが、その頃の商人はことにこすかった。こすいのはまだ好いがごまかしをやった。空缶《あきかん》を持って行って煎餅《せんべい》を買いにやられる。買って来ると、
「何といって買ったの。」継母から意外な問が出る。
「この缶にいくらだけ入れてくださいといいました。」鶴見にはまだ様子がわからないので、そういって正直なところを打あける。
「そんな迂濶《うかつ》なことで好いのかね。これからは品物を缶に入れさせて置いて、これでいくらと聞いてみるのだね。ごまかされるよ。」
 事ごとにこんな風にたしなめられて今までに覚えぬつらさを感じた。
 鶴見はこうして、日々に鍛え上げられる。些細《ささい》なことのようであるが、それでも効果はあった。鞭《むち》をあげているのは継母の手を借りた人生の世智辛《せちがら》さであるということが、追々に納得が出来るようになる。人心の機微を察するということも、こうしているうちに、見当がつくようになる。鶴見にはそれだけの変化が起った。
 継母は継母らしく振舞ったのである。鶴見はそう思って、別段に悪感情も懐《いだ》かずにじっとしていた。
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  宿命的孤独と自由



 まだ中学に入らぬ少し前のころであった。多分明治十九年も押詰まった暮のことであったかと思う。その年ひどく流行した麻疹《はしか》に感染して、一応はどうやら癒《なお》ったものの、病毒が廻って全身に吹出物《ふきでもの》を生じた。薬湯《くすりゆ》に連れて行くにもあまり見苦しいので家人も億劫《おっくう》がっていたところ、西岡という若い未亡人が来て、自分の遣《や》らせている塩湯はどうだろうと勧《すす》めてくれた。家人のためには渡りに船であった。
 塩湯というのは京橋|木挽町河岸《こびきちょうがし》にあった。そんなわけで鶴見はさっそくそこへ遣られた。出養生《でようじょう》である。幼少の鶴見にとっては、これが家庭以外の世間というものにはじめて触れて
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