であろうとも、ただこの伝統的な河開きの気分を味えば好いのである。壮快という感じがその気分の一部分を占めていて、それが万人に共通する。都会における日常生活の屈托と不平とが一時に解消するように感ぜられるからであろう。
鶴見は花火が殊に好きで、両国《りょうごく》の河開きには一頃毎年欠かさずに出掛けて行った。
先年静岡に移ってからのことである。近郊の有度村《うどむら》の農家から、草薙社《くさなぎしゃ》に奉納の花火があるから一度は見ておいてもらいたい、桟敷も好い場所を取ってあるという。今の主人の父親がまだ隠居せぬ時のことであった。花火のようすはその前から若主人を通じて聞かされていた。打揚《うちあげ》も多数あるが、その夜の興味の中心は流星という仕掛ものにある。そしてその仕掛の特殊の構造も図示されたので、大概は承知していた。
当日は若主人が迎えに来て、丁重な夕食を相客《あいきゃく》と一しょに馳走になった。膳の上には一皿の小魚の煮附が載っている。それがもろこ[#「もろこ」に傍点]であると説明しておいて、老主人はひどく土地の訛《なまり》のある言葉でなおもいい足した。自分は海の魚をあまり好かない。このもろこ[#「もろこ」に傍点]は近所の川で今朝|漁《と》ってきたものであるというのである。鶴見にはそれが何よりの珍味であった。
老主人は草薙社への参道である一筋の夜みちを幼児の手を引くようにして、鶴見をみちびいて、親切にも案内された。人家もない畑の傍をたどって行くので足もとは暗い。その上に人が先を争って押合っていたからである。
社前に著《つ》くと、提灯《ちょうちん》や露店などの明りがさして薄ぼんやりと明るくはなっているが雑沓《ざっとう》はいよいよ激しい。見ればその真中を村の青年たちがおおぜいかかって、太い縄のようなものを担《かつ》いで、それに繋がって静に歩いてゆく、その傍に立って、一人列を離れて音頭《おんど》を取っている老爺《ろうや》がある。がんじょうそうな小柄な男である。肌脱ぎの中腰になって、体を左右にゆすぶりながら、右の手に持った扇《おうぎ》を煽《あお》るようにして揮《ふ》って、しきりに何やら喚《わめ》いている。多少だるそうにも見える青年の行列に対照して、これはまた異常な熱狂ぶりである。太い縄のようなものといったのは、流星に火を点ずる時の導線となるもので、その中に火薬が詰めてあるとのことである。
桟敷は社外の畑に多数設けられてある。丘陵の側面などにも点々として灯が見える。その界隈《かいわい》一体に人が充満していて動きが取れない。甲州辺からも遣《や》って来る見物客もあるという話である。やがて打揚がぽんぽんとあがる。桟敷では歌謡の斉唱がはじまる。一方からそれが起ると忽《たちま》ちに四方に伝播《でんぱ》する。そして幾度も反復される。田の蛙の鳴き交す声々の嵐そのままに感ぜられる。
そのうちにいよいよ流星に火が附くというものがある。正直のところ鶴見ははじめからそれほどの大光景が見られるものとは期待していなかった。それがまたどうしたことか、五彩の星が乱れ飛んだぐらいで終ってしまった。あまりにもあっけない。「あれは遣りそこなったのだ」といって皆が失望している。流星は長い間の伝統を維持して来ただけに、構造製作が原始的であるのは免《まぬ》かれ難い。しかもここ数年中止していた挙句《あげく》のことで、余計|不手際《ふてぎわ》になったのであろう。それでも鶴見は満足した。鶴見としては彼の花火に関する閲歴にめずらしい一例を加え得たのである。米国大統領の観覧に供した両国橋|畔《ほとり》の大花火のことが自然に想起される。それは母に抱かれていた幼時のこと、これは草深い地方の田園で由緒ある花火に興じたこと、恐らくはこれがおれの花火に関する閲歴のとじめになるだろう。鶴見はそう思ってみて、更に深い感慨に耽《ふけ》るのである。
さて元へ戻るにしても、母の膝にあがって仕掛花火に火のつく度《たび》ごとに手を拍《う》ってよろこんだ元の桟敷へは戻れない。深々と幌《ほろ》をかけた車の中で、帰路を急がせる切ない思いをして、母はしっかり幼児を抱えている。花火見物の最中に天候が一変してひどい雷雨となったからである。電光が幌を破るようにして隙間《すきま》から射し込んで来る。おりおり神解《かみと》けがするもようである。凄《すさま》じいその音響に湿気を帯びた重い空気がびりびりと震動する。
このありさまに車夫も走るのをためらって、暫くのあいだ車を駐《と》めた。そこはとある店屋の前であった。
ここに不思議な記憶の破片が残っていて、その店屋の菓子屋であるということが確められる。車を駐めたのは日本橋の裏通りあたりではなかったかと、ついそんな気がさせられる場所である。あとから立ち入って考えて見れば、車をそこに駐めたのは、母が名物のみやげでも買うつもりであったかとも思われる。それはともかく、そういうところが菓子屋であるという、店の格好から来る印象は前々から既に強く受けていたものがあったにちがいない。幼いなりに、またそれだけに、そういう印象を拠りどころにして、無意識にもせよ、それとこれとを比較する能力をいつかしらに蓄えていたにちがいない。その比較の証拠に立つのは麹町三丁目の船橋である。
船橋は有名な古肆《こし》で、御菓子司《おかしづかさ》の称号を暖簾《のれん》に染め出していた御用達《ごようたし》である。屋号を朱漆《しゅうるし》で書いた墨塗の菓子箱が奥深く積み重ねてあって、派手な飾りつけは見せていない。番頭《ばんとう》がその箱を持って来たり、持って行ったりして、物静かに立ち働いている。すべてが地味で堅実らしい。その店へよく母に連れられて行った。それをしっかり覚えているのである。たまたま雷雨に阻《はば》まれて車を駐めたその店がちょうど船橋と同じ格好である。そんなわけから、その店が菓子屋であったということを、今だに疑わずにいる。
その四。西郷星というものが出るといっておどかされていた。どんな恐しい星であろうか、臆病な鶴見はついに見ずにしまった。そのころのことである。島原の新富座《しんとみざ》で西郷隆盛の新作の芝居が打たれた。あれは多分|黙阿弥《もくあみ》の脚色に成ったものであったろう。連日の大入であったそうである。この芝居へも母に連れられて見に行ったものの、平土間《ひらどま》はもとよりどの桟敷も超満員で、その上に入り込むだけの余裕がない。なんでも座頭《ざがしら》の席とかで、正面の高いところへ無理に押し上げられた。そこまでは幽《かす》かにおぼえているが、印象はそこで消えて、その先は思い出せない。その代りここまでくると年代はよほど明かになる。この芝居も折から来朝中の米国大統領グランド将軍の観覧に供えたものという。もしそうとすれば明治十二年である。果してこの年であれば鶴見が戸籍面四歳の時である。
もっと零細な記憶の破片なら幾らでも拾われよう。そうは思うものの、その数はいたって少ないものである。漸く拾いあげたものを次に列挙する。
多摩川《たまがわ》の渡し場。そこから川上に富士を仰ぎ見たこと。これは大師詣の途《みち》すがらであったのだろう。それから品川の料亭で、愛想の好いお酌《しゃく》に、「坊ちゃん。あそこをご覧なさい。お舟がきれいに明りをつけていごいていますね。」少女はそんな言葉をささやいた。母に連れられて、どうしてそんな場所に来ていたものか、それは判らない。まだも一つ。それは麻布《あざぶ》の森元座《もりもとざ》で、佐倉宗五郎の磔刑に処せられる芝居を見たこと。四谷の桐座《きりざ》へも行ったこと。その頃は何かというと観劇である。それで見ても母の好みのほどがどうであったかが窺《うかが》われる。
先ず鶴見が四、五歳ぐらいまでの思い出としては以上のようなものである。
それにしても母に連れられて物見遊山《ものみゆさん》に出歩いた享楽の日も、やがて終末を告げねばならなくなった。
明治十三年、五歳の時平河小学に入校。同十五年には今までの古い家を壊して、その跡に新築することになり、傍《そば》にあった小屋で一冬を過すことになった。郷里から次姉が迎えられたが、この不自由な佗住居《わびずまい》で炊事《すいじ》の手伝をしていた。ささやかな菜園にわずかに萌《も》え出《で》た小松菜《こまつな》を摘んで朝々の味噌汁の仕度《したく》をする。そんな生活の様子がまざまざと思い出される。菜園にはまだ雪が消え残っていたのである。
その翌十六年には、父が生母を離別した。鶴見がためには大きな生涯の変動が生じたのである。たまたま国から上って来た姉も貰い泣きをした。母の引き取られていた家へ二人で行くことを、さすがに厳しい父も、一度は許してくれた。その家は芝|明舟町《あけふねちょう》の路次《ろじ》の中にあった。左手は上り口で、右手には勝手の明《あか》り障子《しょうじ》が嵌《は》めてあって、それに油で二重の波形の模様が描いてある。そんな家である。二人はそこで泣き通した。
幼時の記憶はとかくはっきりしていない。そこには一貫した糸も見えず、連続した関係もうまくたどれない。ただそれが思量の或る一角に置かれた時、結晶体に予想せられるように、その一部分がどうかすると、ふと強い光を放つことがある。それだけである。もしこれがアナトオル・フランスであったなら、こんな幼時の些少《さしょう》な砕《くだ》けた感動の種子からも、丹誠して見事な花を咲かせたであろう。鶴見は気まぐれにも、ここでそんな考を運《めぐ》らして見た。アナトオル・フランスの幾巻かを成す幼年物は、晩年も晩年、老熟し切った文芸の畑の土壌に培《つちか》われた作品である。おおよその人が老年になって、往事を無邪気に顧みて、ただそれなりに皺《しわ》ばんだ口辺《こうへん》に微笑を湛《たた》え得るならば、それでも人生の静かな怡楽《いらく》が感ぜられもし、またその境地で満足してもいられよう。しかしそれは凡俗のことである。彼の作品は凡俗とは全く質を異にしていた。
彼にあっては、その作品は幼時の溌剌《はつらつ》たる官能を老いてますます増強した炯眼《けいがん》に依憑《いひょう》させ、そこから推移発展させて、始めて収めえたる数十篇である。その一つ一つが珠玉を聯《つら》ねて編み成されている。多少作り事の嫌いがあると疑うものがあれば、それは短見であろう。試《ためし》にその珠玉の一つを取って透して見れば、人はその多彩に驚かされるにちがいない。あの複雑な巴里《パリ》が、適確な観察の光線の中で、首尾よく踊らされているのである。盛大があり、零落があり、恋愛があり、欺瞞があり、嬌笑がある。それらはいわば機智と冷刺との雰囲気の中で、動く塵埃《じんあい》でその塵埃が虹のような光彩を漲《みなぎ》らしているのである。幼年の作家は老熟した足どりで、いつもその中心を歩いている。これこそ正《まさ》しくアナトオル・フランスの作品である。
鶴見の回想はそれに較べてあまりにも寂し過ぎる。第一に老年の畑が荒れていては、急にその発育を期待されない。多かるべきはずであった流星雨が降り足らなかったといっても好い。しかもそれが一刹那《いっせつな》閃《ひら》めくことがあっても次の瞬間にはすでに滅《き》えてしまっている。いわゆる前方を鎖《とざ》してわだかまるのは常闇《とこやみ》である。一刹那の光はむしろ永劫《えいごう》の暗黒を指示するが如くに見える。
それでも鶴見にとっては、よしや回想の破片であろうとも、これを記念の緒《お》につないで置けば、まさかの時の念珠《ねんじゅ》の数え玉の用にも立とう。鶴見はそう思ってみて、それで好いのだと諦《あきら》めている。
明治十六年、新築落成。これが一つの変動であった。旧家屋の構造様式が徳川末期の江戸風のもので、それがちょっとした旗本の隠居所とも思われるものであったとすれば、新築はどこか明治の役人向きの臭味《くさみ》に染ったものであった。広さはたいして違わぬが全体に殺風景なところが感ぜられる。趣味からいえば、
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