ないからである。現実との矛盾は避けられない。芸術家はそういう矛盾の空気を吸って、息張って、内心の苦闘を重ねる。諦めが来る。そして中庸が説かれ、平常心が語られ、空想が抑制され、節度が守られる。鴎外はそれらの諸徳を一身に集めていたように、或る時は信じていたでもあろうが、それもまたあの端倪《たんげい》すべからざるあそび[#「あそび」に傍点]の変貌であったに違いない。

 鶴見はそういう見方を取ることによって、鴎外のうちに光明面とは反対に悪魔的の半面を見出そうとしているのである。
 鴎外は努めてアポロ的であらんことを期していた。それゆえにディオニソスの祭の招きに応ずることを嫌ってもいた。しかるにそれは外見上のことである。鴎外の生活の基調をなすものは、空想に対する異常な恐怖であったろう。空想には思想の悪魔性と物慾の逸楽性との誘惑が伴う。鴎外はそれを明らかに認めて、恐れていたのではなかろうか。
 フロオベルといろいろの点で似たところが鴎外にある。鶴見は人間の内心に宿る悪魔性の問題に関聯してそんなことを考えているのである。両者とも医者の家に生れたこと、一生職業的文芸家とならなかったこと、そこらあたり
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