さい》していたに違いない。いろいろ思い合わせればなお更のことである。俳句の下には吐志亭と署名してある。
「この吐志亭とあるのが乗杉さんの俳号なのだよ。」鶴見はそういって、なつかしそうに、その日その所で伝票を引きちぎって即吟を書きつけている乗杉の姿を想像にえがいている。
この乗杉はもともと静岡市きってのしにせの主人で、眼鏡を商《あきな》って地味な家業をつづけていたが、呉服町《ごふくちょう》の乗杉といえば誰知らぬものもなかった。乗杉はまた地方の民俗から文化史方面のことにわたって、その造詣が深かった。現に戦災の前まで、静岡の新聞に府中の町人史を連載していた。その乗杉が店の方を閉めてから、つい先年まで清水市史の編纂にたずさわっていた。そのうちに戦争が追々不利に陥ったとき、市では市史編纂を閑事業として、用捨《ようしゃ》なく予算を削ってしまった。乗杉はそういう市の処置を歎いていたが、それから間もなくさる会社の事務員を勤めることになった。「万巻の書灰」の句を書くために伝票が使われたのは、そういうわけからである。
鶴見の心のなかでは、今しきりに幻想が渦を巻いている。乗杉がいったように万巻は甚《はな
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