《し》いていえば、ただ「暗い」という一言で足りよう。目に見えぬものにも臭《にお》いはあろう。どんな臭いがするかと聞かれれば、「臭いはする。あの燐の一塊《ひとかたまり》を空気中に放出しておけば、ふすふすと白煙を揚《あ》げて自燃作用を起す、そのおりに発散するむせるような臭い、そんな臭いがする」と答えるのが関の山である。
 絶体絶命の性慾のさせる仕業《しわざ》である。それを徒《いたずら》に観念の上で弄《もてあそ》んではいられない。鶴見はそう思ってひとり憮然《ぶぜん》とする。
 回想がかれに要求するものは客観的な事象そのもののみである。勢い誰が見ていても誰が聞いていても、その通りだといわれる事柄の羅列に過ぎなくなる。この覚書とても冷静が要求されればされるほど、乾燥無味な叙述にならざるを得ない。

 鶴見と目を見合せているのは貴族ともいわるべき家柄の女である。どんな冗談をいうときにも、すまして、さりげない風を装って、それがわざとらしく見えぬように取りつくろうことを瞬時も忘れない、そういう態度を匂《にお》い袋《ぶくろ》のように肌につけている女である。年は鶴見より五つも多い。恐らくは最初姫君として嫁
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