い。かれは気を励まして、本なんぞに追随するのを止《や》めて、まだ手馴れていない批判的態度に出てみるのも面白かろうと考えている。もし間違っていれば引込ますだけのことである。かれもここで少し横著な構えになる。
『正法眼蔵』が何であろうと、今日のかれには余り関《かか》わりはないはずである。あれを書いた道元は禅には珍らしく緻密な頭脳を持っていたということを、誰しもが説いている。それには違いなかろう。峻厳である一方|悟道《ごどう》の用心が慎重である。徒《いたずら》に喝棒《かつぼう》なんぞと、芝居めいた振舞《ふるまい》にも出でない。そこにも好感が持たれる。殊にこの『正法眼蔵』は和文で物してある。われわれに取っては漢文を誤読するような過《あやまち》をせずに済む。それが先ずありがたい。ずっと前に読んで、まだ頭に残っている印象をたどって見れば、何か近頃の評論家の文章を読むような気がするものがあるように思われて来る。それもなつかしい。
鶴見に取ってはそこに出てくる、今の言葉でいえば、分析とか弁証とか超克とかいうものは、ただそれだけのものとして、そう深くは心を牽《ひ》かされていない。「梅花の巻」に限らず、
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