うとして、討手のものが払暁に表門の前に来る。その条下に板塀の上に夾竹桃が二、三尺伸びているように書いてある。徳川時代の初期、寛永年代のことである。夾竹桃がその時分既に渡来していたものか、そこに疑が生ずる。
しかしかかる疑念をうち消すために、こうもいえる。南蛮船が来航し、次で和蘭陀《オランダ》からも遣《や》って来る。支那《シナ》との交通はもとよりのことである。香木の伽羅《きゃら》を手に入れることで、熊本の細川家と仙台の伊達《だて》家との家臣が争っている。この事は鴎外の『興津弥五右衛門《おきつやごえもん》の遺書』に書いてある。そんな時代の趨勢から見れば、夾竹桃ぐらいが伝っているのに、別段の不思議はないと。
それもそうであるが、果してそうであれば、それ以後の徳川期の文献に、何か記載がなければならない。殊に新奇を好んで飛耳張目《ひじちょうもく》する俳諧者流の手にかからぬはずはなかろう。阿蘭陀西鶴に夾竹桃を読み込んだ一句でもあるか、どうだろう。そんな方面にも鶴見の見聞の領域は狭い。文献の有無を検討するにしても鶴見はまるで不案内である。こんな疑惑は畢竟《ひっきょう》無知のさせる烏滸《おこ》の沙
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