無念が忽《たちま》ちに動く。坊ちゃんはよしやに跟《つ》いて、石に躓《つまず》きながら駈けて出る。
「そうだ。これが忽然念起だ。」
頭のなかを、そんな考が、たわいもなく、ふと閃《ひらめ》いて過ぎる。
しかし鶴見はそれ以上深入りすることを恐れた。はっきりとではなかったが、あまり唯心の妙説に牽《ひ》かされて、理心の中で抽象されたくはなかったからである。ただ『起信論』が衆生心に据わって物を言っているのが親しまれた。
鶴見は鶴見で、『起信論』とは不即不離の態度を取って、むしろ妄心起動を自然法爾《じねんほうに》の力と観て、その業力《ごうりき》に、思想の経過から言えば最後の南無をささげようとしているのである。魔を以て魔の浄相を仰ぎ見ようとするのである。鶴見はそういうところに信念の糸を掛けて、自然に随順する生を営んで行こうとしている。つまるところ、無を修して全を獲《う》る。そこで日々の勤めは否定されねばならない。その最後の一線はどうして踏《ふ》み踰《こ》えるか。ここで逡巡することは許されない。
その最後の一線を踰えるには自然の業力を頼みとするより外《ほか》にないのである。至上の力を頼んで最後の線を踰える時、そこに新に生ずる何物かがあるであろうか。鶴見に言わすれば、それが即ち第二の創造であるというのである。
ファウストは書斎の場で、『ヨハネ伝』のロゴスを翻訳しようと苦心する。語、意、力、業の四様に翻訳の順序を立てて考えて見る。鶴見はそこを『ファウスト考』の解釈によって読んで見て、面白いと思った。鶴見はこのファウストの思想を、おれの平生考えている思想にまるで無関係ではなさそうであると思って見たからである。
隣の坊ちゃんは日々の勤を無意識で行っている。それがあそび[#「あそび」に傍点]である。我々衆生が無心であり得るのはあそび[#「あそび」に傍点]の境界《きょうがい》においてのみである。我々は小供とは違って、いつでも無心ではあり得ない。否定の最後の線を踰える時に、やっと得られる無心である。これは勿論時間的にいうのではない。日々の行事の到るところに、この最後の線は張られているのである。
隣の坊ちゃんを竜宮《りゅうぐう》小僧に擬《なぞら》えて見る。ここでは坊ちゃんは海表《かいひょう》の世界から縁あって、鶴見に授けられたものとする。坊ちゃんは打出《うちで》の小槌《こづち》を持って来る。そして無心で、いろいろの宝を、その小槌から打出しては、それを惜しげもなく鶴見に贈る。こういう考が鶴見の心の隅《すみ》の、どこかの曲《くま》に蟠《わだかま》りはじめた。憑《つ》きものに魅せられたようである。
思想はさまざまに動く。それはそれで好いと思い返しても見る。芸術の複雑性はそこから生まれて来る。その作用は豊饒でなくてはならない。ここに芸術のコルヌコピアがある。打出の小槌がある。
鶴見はそんな事にまでも思を馳《は》せて、二十余年の昔の夢から今日に及ぼして、それを心の中に繰り返して見て、『起信論』全体を納得しようと念じているのである。
蘭軒伝の中で、鴎外が特に二章を費して考証しているものに楸《しゅう》がある。これも外来植物である。丹念に検討したあとで、実際的智識に富んでいる、その道の人としての牧野さんに頼んで、説明を求め、最後の解決がつけてある。極《ご》く約《つづ》めて言えば、楸はわが国のあずさ[#「あずさ」に傍点]かきささげ[#「きささげ」に傍点]かという疑いである。牧野さんはいう。普通あかめがしわ[#「あかめがしわ」に傍点]を梓《あずさ》に当てているが、昔わが国で弓を作った木は、今でも秩父《ちちぶ》であずさ[#「あずさ」に傍点]と称している。この方には漢名はないということである。鴎外は専《もっぱ》ら漢土の文献について説を立てているのであるが、楸は漢土では松柏《しょうはく》の熟語と殆ど同義に用いられ、めでたい木で、しかも大木になるとある。普通の辞書にはあかめがしわ[#「あかめがしわ」に傍点]に梓字を当てて、版木《はんぎ》に使われるとある。上梓《じょうし》とか梓行とかいうのはそれであろうか。そして見ればむこうでいう梓はあかめがしわ[#「あかめがしわ」に傍点]かとも思われる。牧野さんはまたいう。あかめがしわ[#「あかめがしわ」に傍点]は上野公園入口の左側の土堤の前に列植してある。きささげ[#「きささげ」に傍点]は博物館の庭にあると。鴎外はこれに附記して、自分は賢所《かしこどころ》参集所の東南に一株あったと記憶するといっている。
きささげ[#「きささげ」に傍点]は『万葉』に出ているひさき[#「ひさき」に傍点]のことである。鴎外は『万葉』のひさき[#「ひさき」に傍点]には少しも触れていない。鶴見はそのひさき[#「ひさき」に傍点]について書いて置きたいこと
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