とき、石蒜が外来植物の一つであったろうかという想像に、その事の可能であるべき理由が附与せられる。
※[#「木+蟶のつくり」、第3水準1−86−19]柳《ていりゅう》のことがある。ぎょりゅう[#「ぎょりゅう」に傍点](御柳)といって、今日では主としていけ花の方で珍重がられている。世間にそう多くはない木である。御柳を知っているのは大抵いけ花界の人たちということになる。それも立木《たちき》のままで見たものはいくらもないであろう。
鶴見は静岡に長年住んでいたが、近所で一本見たきりである。ちょっといぶき[#「いぶき」に傍点]のような趣きがあり、枝先は素直に垂れて、粉紅《こなべに》色の花をつける。あんな常磐木《ときわぎ》にこんな柔かい花が咲くかと思わせるような、奇異で、うるわしい花である。鶴見が見つけたというその木は板塀に囲まれた狭苦しい空地《あきち》に、雑木と隣り合って、塀から上へ六尺位は高くなっていた。それが年に一度は必ず坊主にされる。花屋が切りに来るのである。鶴見はその度ごとに「おや、おや。またか。」そういって苦笑するのを禁じ得なかった。
渋江抽斎《しぶえちゅうさい》がこの木を愛していた。転居するおりには、いつでも掘り起して持って行き、そこに移しうえた。木はそれでも枯れずにいた事は、鴎外の抽斎伝に中に書いてある。何かの薬になるというので、抽斎の家にその木のあるのを知った人々が一枝を貰いに来る。ただそれだけのことが書いてある。別に考証はしていない。
※[#「木+蟶のつくり」、第3水準1−86−19]は唐詩の中でしばしば見当る。※[#「木+蟶のつくり」、第3水準1−86−19]が外来植物であるのは周知の事実である。叡山の根本中堂《こんぽんちゅうどう》の前にその木があるという。鶴見はまだ見ないが、泡鳴《ほうめい》がそれについて一度語ったことを覚えている。伝教大師《でんぎょうだいし》の時代まで遡《さかのぼ》るとすれば、その渡来も随分古いものである。しかしその割に世にひろまっていない。
東京ではその木を見掛けなかったようである。鶴見が始めてその生態に接したのは、初度《しょど》に鎌倉に移ってからのことである。
雪の下の僑居《きょうきょ》の筋向いに挿花《そうか》の師匠が住んでいて、古流では名人に数えられていた。その家の入口の前坪《まえつぼ》に四つ目を結《ゆ》って、その内側に、やっと四、五尺に伸びた御柳がうえてある。瀟洒《しょうしゃ》としたたたずまいが物静かな気分をただよわせている。そのために狭い場所も自然にくつろいで見えるのである。鶴見は日々の出入に、その家の前を、目を掛けて通らぬことはなかった。
それがどうであろう。今度またこの地に戻って来て見れば、そのあたりはすっかり様子が違っている。その家の主人は上田といった。それから二十五、六年は立つ。上田さんも存命であらばよほどの高齢と思われる。その後どこかへ引移ったものであろう。門札《もんさつ》は名前が変っていた。入口にあった御柳も姿を見せない。
その当時、鶴見の仮寓の真向いは桶屋《おけや》だった。頗《すこぶ》る勤勉な桶職で、夜明けがたから槌《つち》の音をとんとん立てていた。その音に目を醒ますと、晴れた朝空に鳶《とんび》が翼をひろげて、大きく輪を描いて、笛を吹いている。
鶴見が寓居のすぐ奥の隣家には海軍の尉官が住《すま》っていた。子供が二人ある。よしという若い女中が働いている。朝食の済むころには、かしらの四、五歳になる男の子が、玄関の格子戸《こうしど》に掴《つか》まって、這い上ったり下りたりするのが、まるでお猿のようである。そこへ女中が風呂敷を持ったまま出て来る。
「よしや。どこへ往《ゆ》くの。」坊ちゃんはいつもの問を繰り返す。
よしやは黙っている。
「よしや。よしやってば。どこへ往くのだい。」
「よしやはこれからお使にまいります。坊ちゃんも一しょにお出でになりますか。」
よしやはこういって、ずんずん格子戸を開けて出て往こうとする。
「うん。一しょに往くよ。」坊ちゃんは遑《あわ》てて格子戸から降りて、下駄を穿《は》いて、よしやのあとを追うようにして、走って出掛ける。
これが日々の行事である。
鶴見は部屋に引き籠っていて、その時分はよく『起信論』を披《ひら》いて読んでいた。そして論の中でのむずかしい課題である、あの忽然《こつねん》念起をいつまでも考えつづける。そうすると、今しがた出て往った隣の坊ちゃんが、まざまざとまた心眼に映る。
坊ちゃんは格子戸《こうしど》につかまって昇り降りするが、その格子戸が因陀羅網《いんだらもう》に見えて来る。坊ちゃんは無心で戯《たわむ》れる。あそびの境涯で自在に振舞っている。よしやが使に遣《や》られる。よしやが誘う。衆生心《しゅじょうしん》の
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