かも」とある。鴎外が忘れたというのはその歌を指しているのである。鴎外はなおもこれに註記して、先ず拉典《ラテン》の学名を挙げ、漢名石蒜。まんじゅさげ、したまがり、てんがいばな等の称あり。石見国《いわみのくに》の方言にはえんこうばなともいうとある。
 さて石蒜即ち彼岸花の球根が英国に伝播《でんぱ》し栽培されて頗《すこぶ》る珍重がられた事については、別にあの博聞強記を以て鳴らした南方《みなかた》翁に記述の一文があってその由来を詳《つまびらか》にしている。その文は『南方随筆』に収めてある。その書を披《ひら》けば仔細は直ちに明らかになるのであるが、鶴見には今残念ながらそれが出来ない。記憶をたどって概略をいえばこうである。何でも日本から帰航の途《と》に就いた運送船が英国の南海岸で難破し、その残骸は附近の島に打ちあげられた。記憶は確でないがホワイト島であったかと思う。船中には物好きがいて携えて行ったものであろう。それで砕かれた物件に雑《まじ》って彼岸花の球根があったと見える。島の土はその球根をひそかに埋めていた。自然は棄ててばかりは措《お》かない。この孤児のように棄てられていた球根にも季節が来れば花を咲かす。秋ともなれば急に花茎だけが地中から伸長した。葉はまだ出していない。そしてあの反《そ》り返《かえ》った細弁の真紅の巻き花が、物の見事に出現した。驚いたのは島人で、夢ではなかろうかと訝《いぶ》かった。この海中の一小島がまさに楽園の観を呈したのである。こうなって見れば、これが日本で忌まれた死人花とは思われない。
 物の伝播にはそんな不思議な機運がある。いわんや文化の伝播にはもっと自在で不測な交流が行われていたはずだといっても好いのではあるまいか。

 鶴見はこの頃鴎外の書いたものをずっと読みつづけている。『阿部一族』の中で、高見権右衛門が討手《うって》の総勢を率いて引き上げて来て、松野右京の邸《やしき》の書院の庭で主君の光尚《みつひさ》に謁《えっ》して討手の状況を言上《ごんじょう》する一段のところで、丁度卯の花が真白に咲いている垣の間に小さい枝折戸《しおりど》のあるのを開けて這入《はい》ったと、先ずその境地が叙してある。書いてあることは何の造作《ぞうさ》もないように見えてかえって印象が鮮やかだ。寛永十九年七月二十一日のことである。一つは卯の花の事を別段に考えていた関係もあったろうが、鶴見はここに読み到って、また新に卯の花が眼のあたりに咲き返って来たような心地がした。
 これは極めて単純な例示に過ぎないが、鴎外の観照的能力がその具現を見せるときに、適確な記述の文章を背地に置いて奈何《いか》に肯綮《こうけい》に当り、手に入ったものであるかは、原文が簡単であるだけになおよく分る。
 鶴見が今挙げた卯の花は阿部家滅亡の雰囲気のなかにくっきりと花を咲かせていたが、それとは別に内藤長十郎|殉死《じゅんし》の事がその前段にある。そこでは、丈《たけ》の高い石の頂《いただき》を掘り窪《くぼ》めた手水鉢《ちょうずばち》に捲物《まきもの》の柄杓《ひしゃく》が伏せてある。その柄杓に、やんまが一|疋《ぴき》止まって、羽を山形に垂れている。吹田順助《すいだじゅんすけ》さんはこの蜻蛉《とんぼ》の描写を特に推奨して、こういった。――鴎外は取り乱さざるを沈著な態度を以て事象の実相を観照することを忘れていない。年代記的なもの、史伝的なものを書く場合でも、そういう観照力が時々片鱗を示して、無味なるべき叙述に塩を与えてくれる。『阿部一族』における蜻蛉の描写なども凄いほどの効果を示しているといって、鴎外の実相観入の力を称《たた》えている。
 その通りである。鶴見は一も二もなくそう思った。長十郎はその日一家四人と別れの杯《さかずき》を酌《く》み交《かわ》し、母のすすめに任せて、もとより酒好きであった長十郎は更に杯を重ね、快く酔って、微笑を含んだまま午睡《ごすい》をした。家の内は物音一つ聞えずにひっそりしている。窓の吊葱《つりしのぶ》に下げた風鈴《ふうりん》が折々|微《かす》かに鳴るだけである。かような奥深い静寂が前に挙げたような状態で一疋のやんまに具体化されているのである。この場合それはむしろ象徴といった方が好いかも知れない。
 吹田さんは鴎外の文をよく読んでよく理解された。吹田さんはよほどこの蜻蛉に強く打たれたものと見えて、その感動をただ物凄いとかぞっとしたとかいう言葉で言い現わしているが、それも鴎外をよく読んだものの純粋|無垢《むく》なる感歎であろう。鶴見はそう思って見て、かえって自分がこの微妙な描写に行き当った時、最初果してどういう衝撃を受けたか、そこのところを顧みなくてはならなくなった。そして彼は吹田さんに対しても鴎外に対しても大《おおい》に恥じねばならないと思った。正直のとこ
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