ろ、鶴見は吹田さんほど感じてはいなかったのである。人の文章を読むのはむずかしい。よく読んだつもりでいても、まだまだ至らぬところがあるものである。
鶴見はまた思った。その静寂の奥深さは分っているようで、さて心理の上で解説して見ようとしても、徒《いたずら》にその複雑を増益《ぞうえき》するのみで、かえって切実な言葉が著けられない。ただ一つ言って置きたいのは、ここではその静寂が死相を被《おお》った静寂ではないということである。殉死をすぐ前に置いて、長十郎と共に午睡しているのでもない。その静寂はいつでも目を覚している。瞬《またた》き一つしないのである。それが物凄く見られないで何であろう。そして更に永遠なるものを呼吸しているのである。この時の静寂の深刻さはそこにある。戦《おのの》く心を抑え切って、じっとして、その淵《ふち》の底を窺《うかが》うものの目には、すべての情意、すべての事象を一色に籠《こ》めた無限の沈黙世界が眼前に展開して、雲間の竜のように蠢《うごめ》いているのが見えよう。
鴎外は事象そのものの探求とその観照に驚くべき能力を発揮した。これは吹田さんの解説にもある通りのことである。鴎外はいかなる場合にも科学的態度を崩さずにいた。あるいはこれを装って芸術に臨んでいたといっても好い。そして冒《おか》すべからざる冷静沈著のうちに、やがてその一生を終った。一毫《いちごう》の差をもゆるがせにしなかった、あの細密な検討の心構えについては時に応じてこれを説き、自己の製作にこれを施して、遂に倦《う》むことを知らなかった。そしてこの無常の世の中で科学だけが大きい未来を有している。発展する望みがある。そういうことを、鴎外は『妄想』の結末で、鴎荘の白髪の翁に語らせている。
鶴見はそこを読み終って、その一貫した主張と倦むことを知らざる精神とに感動した。しかし読後の感はそれだけではなかった。
鴎外の倦まざる精神は専ら科学の信頼に向けられている。それは一先ず肯定されよう。しかして鴎外は人間行為の無常なるためしとして芸術を蔑《ないがしろ》にしないまでも、その未来性を疑っていたのであろうか。それでは余りに矛盾が大き過ぎる。鶴見の読後感には何かそういった思想の乖離《かいり》があった。よそよそしさがあった。それを長い間どうすることも出来ないでいた。鴎外は他を言っているのではなかろうか。自己を韜晦《とうかい》しているのではなかろうか。それが心寂しく飽足《あきた》らなかったのである。
鴎外の意図するところのものが追々に推測されて来る。
わが鴎外はことさらにそういう境地を仮に選んであそんでいるのではなかろうか。そういうようにも思われて来る。時としてはその境地が、鶴見には八幡《やわた》の藪《やぶ》のようにも見える。鴎外はそこで円錐《えんすい》の立方積を出す公式をひとりで盛んに講釈している。結局人を煙に巻いているのではなかろうか。それも好い。
鶴見はここであの才気の勝った風貌を思い浮べる。鴎外には人を人とも思わぬしたたかな魂があって、我を我とも思わぬのではなかろうか。ゲエテを引いて日々の勤めなんぞと考えて見るが内心は決して満たされていない。そして口にもし行いもするところのものは、いつも中庸であり、穏健である。ただその間に辛辣《しんらつ》な風気が交《まじ》ることがある。潔癖があったからである。それで思い切ったこともしかねない。現に人の好んでせぬことを独力で敢てした。
鴎外の為人《ひととなり》の見どころはその辺にあるのではなかろうか。人はこれを聞いて言うにも及ばぬ平凡事となすであろう。鶴見は自分の言の平凡を嫌わない。彼は事実は事実として、そこから鴎外に対する見方をこの頃変えて来たのである。人はそれを聞いたなら不遜《ふそん》だといって非難するであろう。しかしそれをも意に介せない。鶴見はこれによって鴎外の声価を少しも損ねようとは思っていないのである。
鴎外にも弱点はあった。鴎外は自己を知り過ぎるくらい知っていた。その弱点というのは、自負の心である。消極的にいえば『舞姫』以来のニルアドミラリである。それを自己の性癖として絶えず抑えつけている。鴎外が寛容を示そうとしたのはそのためである。それにもかかわらず自己制圧の手の下から逸《そ》れて僅に表面にあらわれて来たのが、例の難渋なあそび[#「あそび」に傍点]である。現実離れのした遊刃《ゆうじん》余りありというようなわけではあるまい。所詮は鴎外の諦めても諦らめられぬ鬱悶を消する玩具であろう。不平もあれば皮肉もある。嫌味《いやみ》も交る。しかしそこには野趣がある。鴎外はここではじめて胸襟《きょうきん》を開いて見せる。いわば羽目を外《はず》すのである。鶴見は今ではその事を面白いと思っている。
あれは鴎外の玩具の操作である。しかも
前へ
次へ
全58ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
蒲原 有明 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング