れる。巻くことが展《ひろ》げることと同義になる。巻くというのも展げるというのも畢竟《ひっきょう》形式である。形式はその内容をなす生命の流動によって活《い》かされるのである。
生命は渦動する。新旧交替の時期において、人文はその渦動に催されて一歩進める。ただの一歩とは言え、それは創造世界への開展のきざしであり、はやくも革新を約束された社会にあっては重圧の土を破る。そして個性の穎割《えいかつ》が認められるようになり、外来文化の刺戟ともろもろの発見とを緒として次第に学問芸術の華《はな》が咲き匂う。
鶴見はここまで一気に考えつづけて来て、ほっとして、溜息をついた。こんな風に特異な考察をめぐらしたことはこれまでついぞなかった。それだけに、重荷を背負って遠い途《みち》にかしまだちするようにも感ぜられる。またそれだけの余力がこの老年の身にもなお残っていたのかということが訝《いぶ》かしくも感ぜられる。いずれにしてもそう感ずることが、即ち若返りの徴でなくてはならない。鶴見は強《し》いてそう思ってみた。それがまた彼を力づけた。
機縁はすでに釈迢空《しゃくちょうくう》さんの『死者の書』によって作られた。鶴見のためには、この書がたまさかに変若水《おちみず》の役目を果すことになったのである。
しかし若返るといっても、ただそれだけでは徒言《いたずらごと》である。はかない夢に過ぎない。鶴見は更に省察を重ねねばならなかった。そしてこう思った。これもまた貌《かたち》を変えた執著であろうと。彼は執著をまた執著するのである。おれには最早《もはや》過去があるばかりだ。背後が頻《しき》りに顧みられる。背後には何があるのであろう。おれは絶え絶えに声に立つ痛恨をそこに認めるばかりである。目も眩《くら》むような光明劇は前方で演ぜられる。おれには前途はない。将来に希望を繋ぐには朽ちかけて来た命の綱が今にも切れそうである。おれのからだのどこを捜して見ても何ほどの物も残っているはずがない。若返るためには贖物《あがないもの》が入《い》る。贖いもせずにいては所詮《しょせん》助かる見込はあるまい。天寿国は夢にも見られないのである。
鶴見はここで彼をたしなめる笞《むち》の音をはっきり聞いた。なるほどそうである。贖物を供《そな》えずにいて、それなりに若返るすべはない。鶴見は思い詰めた一心から、その業因《ごういん》を贖物に供えようと考えている。これは已《や》むに已まれぬ執著に外ならない。執著の業には因がある。その業因は彼の未生以前《みしょういぜん》に遡《さかのぼ》る。目を遣《や》れば遣るほど計り知れぬ劫初《ごうしょ》にきざしているといってもなお及ばない。生は限りなく連続する。鶴見は、今そこに輪廻《りんね》を観じているのである。
空無に見えるのは、それが一切であるからである。鶴見は今空無そのものを若返りの贖物にささげようとする。よしやそれが贖物の千位の一位にも足らぬものであろうとも、美衣も珍饌《ちんせん》も重宝も用をなさぬ永遠の若返りのために、彼はそうすることを欲しているのである。犠牲となる空無の羊は屠《ほふ》られもしよう。屠られはしても、流されたその血しおにはやがて流転する生の因子が含まれていよう。
鶴見はまた溜息をついた。そして遠い所を見渡すようにしていたが、見当さえも定めかねた目に先《ま》ず映じたものは、時空のけじめを超えて、涯《はて》しもなく蠢《うごめ》く世界の獣の如き幻影である。それにもかかわらず彼の執著はなおもこの茫漠たる世界の雲霧を披《ひら》いて、執著を執著する一心の姿を辿って見ようとする。
輪廻は確に贖いである。苦行である。それ故にその一々を贖いの過程と見て行けば、その贖いのための顕証として、歓喜の相をそこに多少とも示さねばならない。鶴見はそれを内心に予感し得るものであろうと考えている。その歓喜の予感のなかで、永遠の若返りの内容が連続錯綜して開展するのである。その姿をおぼろげにながめやりながら、彼はその一々に頷《うなず》いている。
因循して旧を守っていて好いものか、それとも破壊してまでも急進すべきものであろうか。常識では判断は出来ない。ましてやその中を得るということはむずかしい。そういう状態に置かれた社会が、沈黙の言葉を以て、献身者を求めるのである。誰しも時としては何ものかを胸に蔵していて、考えさせられもするように感じながら、口に出してあらわには唱《とな》えられぬ想念を持っている。未だ表現を知らぬ思想である。どこに向って鬱した気を晴らして好いのか。人々はその隙間《すきま》を模索して、そのために悶え苦しんでいる。そういう時期がある。
動揺期にある社会は守旧破壊の双方の主張の風を受けてますます波瀾《はらん》をあげているが、多数の人々はその双方の思想を識別して
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