はやく訪れて来て、ひらひらと羽ばたいて、花に即《つ》いたり花を離れたりして、いつまでも花のあたりを去りかねて飛び廻っている。
そのうちに朝日は柘榴のこんもりとしてそっくり繁って行く若葉の端々を唐棣色《とうていしょく》に染め出し、漸《ようや》くにして濡縁《ぬれえん》にも及んで来る。
鶴見はこうやって濡縁に及ぼして来た朝日の脚《あし》どりを徐《しず》かにながめていたが、やや暫く立ってから、ふと昨夜読んだ本のことを思い起した。
「おお、そうであった。朝目《あさめ》よしだ。」太い息をつくようにして、ただそれだけのことをいって、また目をつぶった。
鶴見が読んだというのは『死者の書』である。
その本のなかでは世に流伝《るでん》している中将姫《ちゅうじょうひめ》の物語が、俗見とは全く違った方角から取扱われている。『死者の書』は鶴見が数年前から見たいと心がけていながら、手に入れ難かった本の一つである。それを昨夜はゆっくり繙《ひもと》くことが出来た。感得という言葉はこういう場合に使われるのであろう。彼はそう思って丁寧にその書を翻《ひるがえ》して行った。すべてが調子を異《こと》にしているので、初のうちは少し取り附きにくい。それでも頁が進んで来るままに、文義を蔽《おお》うているかの如く見えた闇から脱して、読者はふいときらきらしい別天地に放り出される。今までにはあり得なかった暁《あかつき》が開けて来る。鶴見もまた、藤原|南家《なんけ》の一の嬢子《じょうし》と共に風雨の暴《あ》れ狂《くる》う夜中をさまよいぬいた挙句《あげく》の果、ここに始めて言おうようなき「朝目よき」光景を迎えて、その驚きを身に沁《し》みて感じているのである。
鶴見は今『死者の書』の中でその事を叙述してある一段を想い起して太い息をつく。迢空《ちょうくう》さんが姫に考えさせた「朝目よし」の深い意義が彼が身にも犇《ひし》と伝って来るからである。姫の抱懐する心ばせには縦横に織り込まれる複雑な文彩が動いている。創造の意義である。それゆえに微妙であり清新である。その意義は絶えず生長して行く。
人間には執心というのがある、この事ばかりはどんな障《さわ》りがあっても朽ちさせまいとする念願がある。それがやがて執心である。子代《こしろ》もなく名代《なしろ》もないその執心は、いわば反逆者の魂となって悶《もだ》え苦しむ。その執念を晴らそうとして、変遷推移する世代から、犠牲の座に据えられた第一人者を選んで、いつでも憑《よ》りつき乗りうつる。迢空さんはそういっているのである。
犠牲者はその時から献身者の地位に立たされねばならなかった。繭《まゆ》に籠っていた蛹《さなぎ》が蛾《が》と化《かわ》り、不随意に見えた世界を破って、随意自在の世界に出現する。考えてみればこの急激な変貌の畏《おそろ》しさがよく分る。受身であった過去は既に破り棄てられた。献身者は全く新たな目標を向うに見つけて未知の途《と》に上《のぼ》る。身心を挙げてすべてに当るより外はない。肉身といえばか弱い。心といっても掌《たなごころ》に握り得るものでもない。ただあるものは渇仰《かつごう》である。光明に眩《くら》まされた憧憬である。
現実に即して言えば、それは旧制度が停滞していたそのなかで諦めようにも諦められずに知性の発揚をいちはやく感じていたものの目覚めである。
家庭も社会もただ一色の淀《よど》みの底に沈んでいる。そういう環境の中で人々は相互に不安を抱いて語り合っていた。そして灰色に見える塗籠《ぬりご》の奥では、因襲は伝統の衣を纏《まと》って、ひそひそと人の世の秩序を説いた。新智識を制圧して浅はかな恩恵を売ろうとしていたのである。殆ど自意識を持たせられなかった女人において、その制圧の状態は殊に甚《はなはだ》しかった。
その女人のなかから諦めようにも諦められぬ心のすがたが象徴の形を取って現れる時が来た。その女人がその時代の第一人者である。ここにいう犠牲者である。
かつて人を疑うことを知らなかった姫が今その選に入るのである。
因習から人を救解するには、その人自らが先だって純一無雑な信念を持たねばならない。信の外に何があろう。信は智慧を孕《はら》んで、犠牲者の悲痛を反逆者の魂の執著の一念のうちに示して見せると共に、その悲痛の自覚を直《ただち》に歓喜の生に代えるのである。姫は夜の闇にもほのかに映る俤《おもかげ》をたどって、疼《うず》くような体をひたむきに抛《な》げ出《だ》す。行手《ゆくて》に認められるのは光明であり、理想である。
悌は手招く。それは瞬間を永遠にしつつ、しかも遂に到達されぬ目標である。永遠というものはそういう考察を要求するものとして、その実相をあるがままに捉えねばならない。帰一と同時に開展する。そこに事象の具現性が見ら
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