って小雨が降り出し、晩景にはちょっと雲切《くもぎれ》がして夕日が射す。不定な気象がそんな調子でぐずついている。
 それがどうだろう。きょうは鶴見が朝早く目を覚してみると、もうとうに鮮かな日光が西の丘の小高い頂を輝かしている。いつもの通り座敷を掃除させて、机の前に端坐し、そして向うを眺めて好い気持になっている。端坐するということは、鶴見にはいつからか癖になっているので、厳格な意味でわざわざそうするのではない。一つは子供の時からの家庭の躾《しつけ》によるのであるが、父が言葉少なに忍耐を教えた指導法が、どんなにストイックなものであったかはさて措《お》いて、そうするのが、つまり彼には勝手になっていたからである。長時間坐っているのには、あぐらを組むよりも正坐が好ましい。合理的でもある。鶴見はそう思って、机に向うときはいつも正坐をする。書見《しょけん》をするにも体が引締められて、まともに本が読める。長年にわたるそうした経験が今ではならわしとなって身に附いているのである。

 鶴見は障子《しょうじ》を開け放ったまま、朝の空気を心ゆくばかり静かに吸っていた。そしてこう思った。爽《さわ》やかな空気なら遠慮なくたっぷり吸える。いくら吸っても尽きることはない。乏しい煙草をがつがつ吸うよりも遥《はるか》に増しだと思っているのである。
 彼も若い頃は一廉《ひとかど》の愛煙家であったに違いない。少し喫《の》み過ぎたと気が附いて、止めようとして、初手《しょて》は誰でもする代用品を使ってごまかした。それではいけない。たとえ代用品であろうが、その方へ手を出すのがいけないのである。煙草がなかなか止められないのはこの手を出すという習慣が止められないからである。代用品であっても、見ずにいられるように手を出さずに済ましていられるようになることである。こうやってみても絶対に禁煙するまでになるにはおよそ一年かかった。
 薄志弱行になりがちな彼にもなお我慢と忍耐とが、痩せた体のどこやらにその力を潜《ひそ》めていたのであろう。鶴見はこれも父から受けた沈黙の実践によって養われて来たものと反省してありがたく思っている。

 この朝の久しぶりの好天気、それが鶴見には何よりもうれしかった。物を書くにも陽気の変化が直ちに影響する。年を取るにつれて、それがますます著《いちじ》るしくなって来た。何よりも望ましいのは好天気である。鶴見はいう。
「こう遣《や》っていて、新鮮な空気を思う存分吸っていると、おれの精神も遽《にわ》かに羽根を生《は》やして、皺《しわ》の寄ったこのからだを抜け出して、あの日光を浴びて、自由に飛んで行って、舞い遊んでいるような気分になる。まあ一口で言えば仙人修行が積んだというかたちだね。実際そういう修行をした人が昔から日本にだって幾らもあったのだ。おれも禁煙で煙草は楽になったが、もう一つ代用食にも手を出さずに済ます工夫はあるまいかな。気を吸って心を養うのだ。わけなさそうだが」といって高笑いをする。

 庭木のうちでは槙《まき》がいちばん大木であり、丈《たけ》も高い。朝日が今その梢《こずえ》を照し出している。楓《かえで》はうっとうしいくらい繁って来たが、それでもけさは青葉の色が滴《したた》るように見える。
 縁先《えんさき》の左横手に寄って柘榴《ざくろ》が臥《ふし》ている。この柘榴は槙にも劣らぬ老木である。駱駝《らくだ》の背の瘤《こぶ》のような枝葉の集団が幾つかもくもくと盛りあがっている。そして太い幹が地を這《は》って遠呂智《おろち》のうねりを思わせるが、一|間《けん》ばかり這って、急に頭を斜に上の方へと起《た》ちあがらせている。土を破って地上に曝《さ》らされた根株は、大風雨の日に倒されたときのままに置かれてあるのであろう。その根元近くから幹の分れの大枝が出て、これも本幹に添うて斜に腕を押し伸べている。その上に密生して簇《むらが》っている細かい枝までがこの木特有の癖を見せて、屈曲して垂れさがり、その尖《さき》を一せいに撥《は》ねあげる。柘榴の木立《こだち》の姿はそういうところに、魅力がある。
 今は季節であるから盛に若芽をふいているが、仔細に見ると、老木の割に若芽がひどく競《せ》り合《あ》い過ぎるように思われる。鶴見は颱風《たいふう》で一度倒されたということを聞いたのみで、その後の状態については知らされていない。想うに、樹勢は一時衰えていて、それが追々に回復して来たというように見られる。今年は極めて威勢が好い。忽《たちま》ちのうちに若葉が重《かさな》って幹の大半を隠してしまう。花つきの悪いのはそのためであろう。それでも若葉の底の方の、思いもかけぬところから真紅《しんく》の花の蕾《つぼみ》が覗《のぞ》く。二つ三つ咲きかけたのもある。
 そこへ翅《はね》の白い蝶《ちょう》がいち
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