向背を決するだけの文化を有していない。少数の当事者は私利我慾を恣《ほしいまま》にしようとして盲動している。あたかも好し、この時に当って、献身者は時代の両極を成す思想を超克して身を起す。そしてその事を無意識の裡《うち》に成就する。
献身は非常の事態である。それを為すには飛躍を要する。超ゆべきものを超えるには身を捨てて掛らねばならない。やがて塞《ふさ》がれた生命の流が疎通する。かくて献身者は生命の流のしかもその中流に舟を浮べて、舟の漂い行くに任せて、ひとりほほえんでいる。
献身は非常の事態である。反逆者の魂にこもる執著の憑《つ》いてさせる業としか思われない。しかもその成し遂げた蹟《あと》を見るに、そこには人文の中心に向って奏《かな》でられる微妙な諧和が絶えず鳴り響いている。朽ちせぬ瓊琴《ぬごと》の調《しらべ》である。これこそ真にその中を得たるものといわねばなるまい。人間わざとは思われないからである。不思議といえば不思議である。
献身者の使命はここで終る。それと共に献身者は身を隠してしまう。人は想像をめぐらしてその隠れの里を執著の窟《いわや》に求めても好い。その執著の窟戸《いわやど》を折々開けて、新機運に促されつつ進展して行く人の世の風光を心ゆくばかり打眺めて佇《たたず》んでいる姿がある。暁《あかつき》の夢にその面影を見かけたといったとしても、誰がそれを過度の空想を逞《たくまし》うしたものといってむげに非難し得るであろう。
生命は滞《とどこお》るところなく流動する。創造の華が枯木にも咲くのである。藤原南家の郎女《いらつめ》が藕糸《はすいと》を績《つむ》いで織った曼陀羅《まんだら》から光明が泉のように涌《わ》きあがると見られる暁が来る。
釈迢空さんは『死者の書』の結尾にこういっている。「姫の俤《おもかげ》びとに貸すための衣に描いた絵様《えよう》は、そのまま曼陀羅の相《すがた》を具えていたにしても、姫はその中に、唯一人の色身《しきしん》の幻を描いたに過ぎなかった。しかし残された刀自《とじ》、若人たちのうち瞻《まも》る画面には、見る見る数千の地涌《じゆ》の菩薩の姿が、浮き出てきた。それは幾人の人々が、同時に見た、白日夢《はくじつむ》のたぐいかも知れぬ。」
迢空さんの美しい文章はいつまでもその書を読むものを手招きしている。鶴見もまた迢空さんに誘われて、何かもう少しいってみたいと思う言葉が醸成され、涌《わ》き出《だ》して来るのを内心に感じている。
鶴見はここで、創造ということについていってみたいのである。輪廻と創造との関係と言い換えても好い。
輪廻が贖《あがな》いであり、そこに歓喜が伴うということは、鶴見が前にいっていた。彼はそれを基礎として更に考えを進めてみるのである。
輪廻は現実の事象に執著するということから始まる。鳥獣虫魚草木に至るまでの万物は、感覚を媒介として、個想を養う輪廻世界の苦行の姿として知覚される。そしてその苦行に宿る歓喜を求めて、一度求め得たるものを放とうともせぬ貪欲心が生ずる。それが執著である。鳥獣|乃至《ないし》草木においても、知覚の厚薄はあろうが何らかのかたちで人間と同じく、その苦行と歓喜とを感じているのではなかろうか。鶴見はそこまで推定して見ねば気が済まぬように思う。少くとも万有が錯綜《さくそう》した知覚関係に置かれているものと信じさせられている。感応が行われねば世界は死滅である。
刹那《せつな》は永劫《えいごう》に廻転する。なぜかなれば普遍の生命は流動しているからである。もろもろの感覚によって起される執著が因《もと》となり種子《たね》となって幻想の渾沌《こんとん》を構成する。渾沌は渦動する。この渾沌たる幻想は漸《ようや》くにして流動する生命に孕《はら》まれる白象の夢となるのである。新たなる言葉が陣痛する。托胎《たくたい》の月満ちて、唯我独尊《ゆいがどくそん》を叫ぶ産声《うぶごえ》があがる。これこそ人文世界の薄伽梵《ばかぼん》、仏世尊《ぶつせそん》の誕生である。かくして耀《かがや》かしい学芸の創造と興隆が現世に約束される。
観るが好い。誕生仏は裸身であってまた金色の相を具え、現実であってしかも理想の俤を浮べる。
創造のことを思量しつつも鶴見はいつしか夢に夢を見ていたのである。夢の醒《さ》め際《ぎわ》に少し身を顫《ふる》わしていたが、暫くしてから気が附いたらしく、口中で低声に何か唱《とな》え言《ごと》をしているように見えた。それは「南無」というように聞える。鶴見は両三遍《りょうさんべん》唱え言を繰り返してから、遽《にわ》かに勢づいていった。「天工を奪うとはこの事だ」と。
鶴見の輪廻観は要するにこの流転世界に対応する心像を因子として個想の発揚が欲求される創造観である。刹那に永遠を照見する幻想
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