うま酒の歌」が重ね重ねの機縁となって鶴見を刺戟した。刺戟されたのは久しく眠っていた製作欲である。鶴見は物に憑《つ》かれでもしたようになって、しきりにそれを不思議がっている。
しかしまた鶴見はそれを恐れもした。こんな時に景彦がやってきて反撃するかも知れぬということを恐れたのである。不思議不思議と言《い》い募《つの》ってみても、そのなかからは何も出て来ないのだ。実行だよ。不思議というのは実行の成績に待つべきものだ。こういっておれを言下に痛罵するかも知れない。
杜甫《とほ》に「飲中八仙歌」がある。気象が盛んで華やいでいる。強《し》いて較《くら》べるのではないが、真淵の「うま酒の歌」においても同じことがいえる。そこで鶴見はこう考えている。詩には何を措《お》いても気象が立っていなければならない。丈《たけ》高いすがたである。どんなに柔艶な言葉を弄しても、底の底から揺《ゆる》ぎのないいきざしが貫き通っていなくてはならない。それを気象が立つというのである。おのずから生の華やぎが作品の表に見えて来ねばならない。それがないのは畢竟《ひっきょう》飢えた詩である。そんな考が不意に射出《いだ》した征矢《そや》のように、鶴見の頭脳のなかを一瞬の間に飛び過ぎた。
戦災にかかってからは、いや更に荒されたまま、痺《し》びらされたままになっていた頭脳が、ここに漸《ようや》く本然の調子を取り戻す機会を得たことになる。この回復の徴を齎《もたら》した「うま酒」はあたかも霊薬の如きものであった。霊薬の効験は著しかったといって好い。鶴見はそれをよろこんで、将来に何物をか期待する予感を抱くようになった。
今直ぐに手を伸せば把握される何物かがあるようにも思われる。さてそれがどこに潜《ひそ》んでいるかは分らない。鶴見は依然として坐ったまま黙りつづけている。そうしている間に、この日もまたいつしか暮れて、電燈が点《つ》いた。
鶴見たちが世話になっている家は、農家の常とて、表口から裏口にかけて、突き抜けていて、その空所が広い土間である。この家では、その土間の中ほどより裏口に近いところに大きな食卓を据え、その周囲に腰掛が置いてある。食事のおりにはめいめいが極《き》まった席に順序に著く。電燈を点けることが、おおかた夕食開始の刻限になっている。
今晩も電燈が点いたので、鶴見は出居《でい》から土間《どま》に降りて、定めの椅子を引き出して腰をおろす。鶴見の席は卓の幅の狭い側面を一人で占めることになっているのである。家族の人々は老人夫婦をはじめ出揃っている。
この家の古い建築の仕方から見れば、いま食卓の据えてある土間の奥に竈《かまど》が築《きず》かれていて、朝夕に赤い火が燃えていたものと推測される。厨《くりや》が建増《たてまし》になってから、三つ続きの大きな竈もその方へ移されて、別に改良した煉瓦の竈も添わっている。内井戸も出来て、流し場も取りつけられ、すべては便利になっている。
それで電燈は、出居と囲炉裏《いろり》の間《ま》との仕切の鴨居《かもい》に釘《くぎ》を打ちつけて、その釘にコオドを引き掛けてあるのを、夕食のおりだけはずして来て、食卓を側面から照らすように仕向けるのである。囲炉裏の間ともとは台所であったらしい部屋とのあいだには大きな柱が立っていて、大黒柱《だいこくばしら》と向い合いになっている。その柱をこの辺で、うし柱といっている。電燈はそのうし柱のすぐ側《そば》に掛けられる。丁度鶴見の席の背後になる。そんなわけで、そこに火の点く時が食事をはじめる合図になるのである。
この家の主人は、おかたが抱えて来て卓上に置いた大鉢に盛ったものを、二つずつ分けてわれわれの前にならべてある皿の上にも配って廻る。紡錘形のにこやかな物である。蒸し芋である。
主人は鶴見にこっそりいった。「きょうは一月遅れの七夕《たなばた》ですから、初穂《はつほ》として早出来の甘藷を掘って見ました。」
こういって、主人は自席へ戻って行った。
ほほえましい空気が一座の人々の心を和《なご》めずにはおかない。誰の顔を見ても微笑の影が漂っている。
鶴見ははからずもこの事に感興を得て、数日の後に一篇の古調を賦《ふ》した。全くの異例である。病人に食慾が出てきたようなものだといえばそれまでであるが、鶴見はそれを今以て不思議がっている。
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国足らす畑つ益芋(ますうも)、
をしげなく早めに掘りて、
初穂をば享《う》けたまへと、
たなばたのまつりに供へ、
家刀自《いへとじ》はそがあまり
鉢に盛り、うからにぎはす。
主人(あるじ)は皿に取りわけ、
われらにもいざとすすめぬ。
土をいでて時もあらせず、
このうもの蒸しのうましきや。
まろらに、にこげに、
食うべぬさきよりぞ
おのづからほほゑまる。
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