って、痩っぽちの裸体を風呂屋の洗い場で彼に見せてやった。

 銭湯からの帰りしなに、泡鳴は満足げにぶらぶらと歩いていたが、遽《にわ》かに気がついたと見えて、煙草を買いに、とある雑貨店に立寄った。その店先に、「琉球泡盛あり」と埒《らち》もなく書いた貼紙《はりがみ》が出ている。コップ飲をさせるというのである。鶴見はそれが場所にふさわしくないので多少不安におもっている。
 泡鳴はその貼紙に目をつけて、咄嗟《とっさ》にこういった。
「おい、君。一杯やってゆこう。」
「それも好かろう。」鶴見はそういって彼の要求に応ずるより外はなかった。そしておれはまた掬《すく》われたなと感じた。ちょうど手網にかかった雑魚《ざこ》のようにも思われたからである。
 こういうような敏捷《びんしょう》な行動で、泡鳴は人生の機微を捕える。工夫といって別段の方法があったようには考えられない。
 湯上りの泡盛は確《たしか》に旨かった。
 木曾旅行の途次、贄川《にえかわ》の宿で乗合馬車が暫くのあいだ停《とま》っていた時のことである。折から鉄道工事の最中なので、大勢集っていた工夫たちにまじって、名産の「ななわらい」を一杯試みた。今湯上りの泡盛が、鶴見にそれ以来の快味を覚えさせたのである。
 長話はここで尽きた。黙って聞いていたはずの景彦はいつしか姿を消している。鶴見にはそれを少しでも気にかける様子はなかった。

 長話の後で鶴見はまた別な事を勝手に想い浮べている。
 戦災後十日ばかりもたってからのことであったろう。鶴見は所用があって、焼け跡の静岡市に出掛けた。町内で班長を勤めていた人に逢って、始末をつけておくべき要件を持っていたが、その人の立退先《たちのきさき》が分らなかった。それが少し見当がついたので、そのあたりを尋ねて見た。いくら捜しても尋ねあたらない。鶴見は諦めて、疲れ切った体を持て余すようにして足を引きずっていた。
 その辺は安東といって住宅地である。大部分は焼け残っている。浅間社《せんげんしゃ》の花崗岩の大鳥居《おおとりい》の立っている長谷通《はせどおり》も、安東寄りの片側はおおむね無事である。その通をがっかりして戻って来ると、平常に変らず店を開けている古本屋が先ず目についた。
 小さな店のなかは立読みなどをしている青年たちで込み合っている。焼けあとの形《かた》づけさえ覚束《おぼつか》ない状況のさなかで、一方ではこのありさまである。その光景にひどく驚いたが、店の主人は顔馴染《かおなじみ》でもあるし、鶴見にしてからがその店の前は素通りにはできなかった。恐らく市内でここがただ一軒残った古本屋であるかも知れない。そう思って見るとなお更のことである。
 鶴見は店にはいって、いつもするように書棚の前に立って、ぎっしり詰めてある本を仔細に調べて行こうとしたが、それを為すだけの根気も既に失せていた。目がちらちらする。精力の尽きているのを知って、鶴見は我ながら情なくなる。それでも多数の書のなかから三冊を選んで購って来た。
 その三冊というのは、真淵《まぶち》の評伝と、篤胤《あつたね》の家庭や生活記録を主として取扱ったものと、ロオデンバッハの『死都ブルウジュ』の訳本とである。
 鶴見はやっとの思いで、転出先の農家に帰り著いた。そして手に入れた三冊の本を机の上にならべて見た。これが果して自分で選び出して来たものか、どうしてもそうとは思われない。まるでちぐはぐで三題話の種にもならないじゃないか。鶴見は例の癖で自嘲の念に駆られながら苦笑した。
 とにもかくにも、鶴見はこの三冊の外には読み物を持たない。それで先ず真淵から手をつけた。
 真淵に「うま酒の歌」というのがある。
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うまらにをやらふ(喫)るがねや、一つき二つき、ゑらゑらにたなぞこ(掌底)うちあぐるがねや、三つき四つき、言直し心直しもよ、五つき六つき、天足し国足すもよ、七つき八つき。
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 評伝はこれを引用して置きながら、その歌には余り価値を認めていない。鶴見は一読して感歎した。それから毎日のように口誦《くちずさ》んでは、そのあとで沈思しているのである。
 鶴見にはこの歌につき別に思い出があって、それが絡《から》みついて、その印象をますます深くしている。それというのは、先年静岡市の図書館で名家墨蹟記念展覧会が開催されたことがある。その会場で真淵の横幅物を見た。浜松の某家からの出品である。鶴見はその幅の中で、一度この「うま酒の歌」を知っていたからである。知ってはいたが最早《もはや》十年も昔のことである。忘れていたといっても好いぐらいである。よく練れた温雅な薄墨の筆蹟で、いかにも調子は高いが、どこまでも静かにおち著《つ》いていて、そこにおのずから気品が備っていたように覚えている。
 この「
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